【番外編】私が走り幅跳びに救われた話
繰り返しますが、私がITP(特発性血小板減少性紫斑病)と診断を受けたのは、小学三年生の8歳の夏でした。
私は母親が体育教師、父は趣味がマラソンというスポーツ大好き一家に生まれ、私も短距離走やマット運動、器械運動などを得意としていました。
足の速い小学生がクラスの人気者なのは、今も昔も変わりません。
球技は体格が小柄だったこともあり、得意とまでは言えないけれど人並みにはこなせました。
水泳も小3の夏の猛特訓の結果、50m泳げるようになっていました。
将来の夢は母と同じ、体育教師でした。
それを一瞬にして奪ったのが、ITPという現実でした。
運動には全て制限付き、主治医の許可が必要でした。
身体を動かすことがとにかく好きだった私には、つらく、悲しく、悔しく、つらい事実でした。
受け入れるのに時間がかかったというより、受け入れざるを得なかった。
無力な子どもだった私には、全てを諦めて、絶望を受け入れることしかできませんでした。
そんな私に転機が訪れたのが、小5の秋のことでした。
私の小学校には小5、6年生は毎年、陸上記録会というイベントに出場することが義務付けられていました。
球技ではない陸上競技は私でも取り組める機会が多かったため、出場することができました。
足はそこそこ速くてもスタミナがないため、100m走はいつもいまひとつ。
けれど、走り幅跳びで小5女子の部2位、私の学校の女子の中では1位という記録を記録しました。
それがきっかけで、学生時代から陸上が専門だった体育教師が、私の走り幅跳びの才能を伸ばすことを決めました。
私の小学校に陸上部はなく、間違いなく特別扱いです。
母も学生時代の先行は陸上競技、父も長距離走のランナーということで、先生と両親が知り合いだったのも大きかったと思います。
とにかくそれから、私の走り幅跳びの特訓が始まりました。
もちろん数値の悪い時は運動はできませんが、球技はできなくとも走り幅跳びはできました。
放課後の校庭の砂場で。
休日は母が指導役となり、近所の空き地や土手で。
陸上用のスパイクも、ユニフォームも買いました。
先生や両親の熱意を受け、私は球技ができないストレスを、全て走り幅跳びに賭けることにしました。
そして小学6年生の秋、県の陸上記録会に参加することとなりました。
初めてのグラウンドに最初はなかなか踏切が合わず、1回目、2回目は平凡な結果しか出せませんでした。
そして迎えた最後の跳躍。
私は生まれて初めて4mを越えました。
けれど、踏切のタイミングが微妙で審議に少々時間がかかりました。
あとで聞くと、先生も母親もラインを越えていてアウトだと思ったと言っていました。
結果的には何とかセーフ判定で、その結果が反映されて私は3位入賞することができました。
中学生になっても走り幅跳びを続けたい気持ちもあったのですが、私が進学した中学に陸上部はなく、私の走り幅跳び人生はそこで終わりました。
ただ、私が走り幅跳びから学んだことはたくさんあります。
特に私がいつも心に刻んでいたのは、当時公開された映画「紅の豚」になぞって、「飛べない豚はただの豚だ」。
そして、「誰よりも遠くへ跳ぶ」。
単純ですが、ただそれだけを目指していました。
私の絶望全てが走り幅跳びに救われたとは思いません。
だけど、走り幅跳びに出会えたことは間違いなく無駄ではなかったと思っています。