靴ずれから考える不要不急とは
今日のテーマは「靴ずれ」
こんな薄っぺらい言葉をどれだけ深められるか
これシリーズ化したら面白そうだな。
でも薄っぺらい言葉という括りにしたら、それを極めている人に怒られそうだな。
そもそも靴ずれを極めている人っているのかな。
もうなにか究極な性癖に足を踏み入れそうだから、この話はやめにしよう
今日、私は靴ずれをした。でも履いていたのはサンダルだったからサンダルずれかな(どうでもいい)
午後4時30分。おひさまを追いかけるように私は散歩に出た。
気持ちがいい。世の中外出自粛と謳っているが、遊歩道にはたくさんの人がいた。
少しくらい外に出ないと、心が沈んじゃうよなぁ。
私は温かい春風や河川敷にあふれる人々、沈みゆく夕日に意識が向いていた。
それが一変したのは散歩が終盤に差し掛かったところだった。
………痛い。
急に左足人差し指第一関節にしか意識が向かなくなってしまった。
こうなると散歩は楽しくない。だって痛いもん。
サイズの合っていないクロックスを履いていたからだろうか。
それとも小池さんの言うことを逆らって不要な外出をしたからだろうか。
いやいや、今回の散歩は私にとって不要ではない。(二重否定は強い肯定)
誤解を恐れずに言わせてもらうと、私は外に出ないと死ぬ。
一日に一度はおひさまを浴びないと具合が悪くなるのだ。
私は一日中ベットの上でゲームをする人にはなれないのだ。
昔からどうしても外の空気に触れないと体調を崩す。
だから今のコロナ状況は最悪だ。
休みの日こそ外出する種族の私にとって今の状況は苦痛でしかない。
だめなことはわかっている。命より惜しい外出はない。
わかっているのだが、桜は待ってはくれない。
今日私は、コロナにかかるかもしれない、また他人に移すかもしれないという危険を受け入れながら桜を見に行った。(私のせいで人が死んでも責任は取れないが)
最近の世の中はピリピリしている。
偉い人が「不要不急の外出は控えよう」と言っているのにあの人は出かけている。私はこんなに我慢しているのに。あの人のせいで感染が広まったらたまったもんじゃないわ。
私が最近目にする外出自粛派の人たちの意見だ。(外出は自粛しなければいけないことなので派閥も何もないのだが)
私は不要不急という言葉が問題なのではないかと考える。
だってこれは人それぞれの尺度であるから。
ある人は、今日が娘の誕生日でどうしても外に買い物に行かないといけなかったのかもしれない。
またある人は、遠くの友達と10年ぶりの再開でどうしても飲み会に参加しなければならなかったのかもしれない。
みんながみんな広い心を持っているわけではない。
いや、この問題は心を狭くしないといけないのかもしれない。
だって命がかかっているのだから。
でも私はコロナで死ぬのだろうか。私に限って死ぬことはないだろう。
きっと今までコロナで死んだ人も同じように思っていただろうな。
結局私は自分の主張がなんなのか。どちら側の人間なのかあやふやなままここまで話を進めてしまった。
きっとこんなに外出自粛を謳うと、私と同じ種族の人間は心の病になってしまうのではないか。
私がこんなあやふやな立場にいるのは、心の病になるのを自ら無意識に防いでいるからなのではないかと考える。(正当化)
最後に、、、
外に出ては行けない。みんな生き延びよう。