アニメ映画 聲の形 で描かれる川合みきという人物 ~罪の自覚。キリスト。親鸞~
本稿では、アニメ映画「聲の形」のネタバレを含みます。
我々は古今東西、「罪の自覚」というテーマを非常に好む。
例えば、ヨハネによる福音書の第8章には、姦淫の罪で捕まった女が石打の刑に処せられようとしていた際、イエス・キリストが現れ、民衆(パリサイ人)に対し「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言った結果、誰も石を投げずに帰ったという話は非常に有名である。
我が国にも、親鸞の「悪人正機説」がある。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」という一節は有名である。
これらには、「自分が罪人であるという自覚を持つことの倫理的な(信仰上の)大切さ」という共通した教えがあるように思う。我々は自分に甘く、他人に厳しいため、つい自分のことを棚に上げて他人を非難してしまいがちである。自身も過去に罪を犯していたり、これから先に罪を犯す可能性があることを自覚し、戒めることは宗教や時代に限らず、普遍的に大切なことである。
ところで、「聲の形」というアニメ映画をみた。小学生時代にろう者のヒロインをいじめていた主人公が、そのことでかえってクラスからいじめられるようになり日陰の人生を歩むようになったものの、高校でヒロインと再会し、心を通わせていくうちになんやかんやで愛が芽生えるという話である。
障害者問題、いじめ問題等、様々な問題を扱っていながら話はきっちり畳むという、京都アニメーションの名作映画である。(原作は漫画)
登場人物に、「川井みき」という特徴的なキャラがいる。ネット上では、とても嫌われている。次の画像のとおり、Googleで検索をすると、「ゴミ」などといわれ、候補に出てくるページにも、「クズ」「ウザい」「気持ち悪い」などといった言われ様。地上波で放送されると、Twitterでは「#川井を許すな」というキーワードがトレンド入りするほどである。
なぜ川井はここまで嫌われるのか。映画を見た人であれば多くの人が共感できると思われるが、「私は悪くない」という性格を軸にキャラが作られているためであるように思われる。小学生時代、川井自身はいじめ加害者サイドに属しており、「やめなよ(笑)」と言いながらヒロインのいじめに加担していたにも関わらず、学級会で主人公のいじめが問題視された際は泣きながら「私はずっとやめよって言ってるのに聞かなかったじゃん!」と「私は悪くない」モードを発動。
その後も、高校ではいじめ加担の過去をすっかり忘れ、主人公の小学生時代の悪行をクラスの皆に広める。なんやかんやでみんな仲良くなり始めたクライマックス、主人公が退院した際は、未完成の千羽鶴を持ってきて、あたかも主人公の人徳がなかったと言わんばかりに「集まらなくて…」と泣き出す。
などなど、うざエピソードはきりがない。
このような、自身の罪には一向に向き合わず、ひたすら他者を叩き続けるという川井の考えや行いは、「罪の自覚」という観点からみれば良くないことであろう。我々はそういった川井の倫理的瑕疵を察知し、彼女を叩くのである。主人公と川井の行いを新約聖書の例で例えるなら、「罪を犯した主人公に向かって石を投げている、自身の罪を自覚していない川井」という構図であろう。
さてここで、さらにメタに考えてみよう。すると、あらたな構図が浮かび上がる。つまり、我々は、「罪を犯した主人公に向かって石を投げている、自身の罪を自覚していない川井」に対して、その道徳的な罪を非難し、石を投げているのである。これにはさすがのキリストも落胆するであろう。新約聖書で例えるなら、キリストが、民衆(パリサイ人)に対して、「女に石を投げる前に自分の罪を認めろ!」と石を投げ始めたような状況である。そう考えると、川井叩きは非常に業が深い行いのように思える。我々は、あまりに楽しいために、投石をやめられないのだ。
今は、以前に増して「罪の自覚」が重視される時代になってきた。意図的であろうと、無知からであろうと、少しでも配慮の足りない言動をしてしまうと、無数のポリティカルにコレクトな人々から激しく攻撃される。
確かに、罪を自覚することは大切である。自身が気付かずに誰かを傷つけていないか、日々感覚をアップグレードしていく必要がある。それでも、キリスト面をして、罪を自覚していないパリサイ人に向かって石を投げるという行為は、姦淫をした女と同じぐらい罪深いはずだ。何より大切なのは、罪を侵さないことでも、罪を自覚しないことでもなく、まず他人に石を投げるのをやめることである。
もっとも、この文章を書いている私自身、「パリサイ人に石を投げるキリスト面した連中」に石を投げる快楽を感じていないといえば嘘になるのだが…
(以上)
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