さらば箱舟
さらば箱舟(1984年:日本)
監督:寺山修司
出演:小川眞由美
:山崎努
:原田芳雄
:高橋洋子
:高橋ひとみ
:天本英世
毎年必ず原作を読む習慣がある自分なら、いつか観なければと思っていた。だが期待より不安が勝ちすぎるので手に取ることはなかった。それを今あえて観る。一念発起して鑑賞する作品。
ブエンディア家一族が辿った数奇な100年の歴史を魔術的な文章表現で描いた、コロンビアの大作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスの名作「百年の孤独」を、日本の前衛演劇者、寺山修司が映画化した因習と愛憎に満ちた作品。その内容にマルケスサイドからクレームがつき、公開が寺山修司の死後となったいわくつき。
文明から隔絶したある村に本家と呼ばれる主人がいた。その村には本家のみが時計を持つという因習がある。分家の夫婦はいとこ同士で所帯を持っているが、血が近い者同士で子を作るとケダモノのような子供ができると言われ、妻は父から貞操帯をつけられていた。二人は子供を作ることもできず、夫の分家の男は不能者呼ばわり。ある日闘鶏の諍いが原因で分家の男が本家の主人を刺殺する事件が起こり、分家夫婦は逃亡しようとする。が、奇妙な連環の輪に囚われてしまう。そして…と、一部原作を踏みつつも寺山修司の奇怪で禍々しい世界が画面からあふれ出ている。
観終わって出てきたのは、前衛演劇を映画で観たというそのまま直球の感想。正直、ストーリーは分からない。特に脈絡もない登場人物の行動やセリフ、そして因果。説明過剰の映画はげんなりするが、説明がまったくないままに話が勝手に展開されるのもげんなりする。そして1シーンの中にまったく別のカットを割り込ませるので何を伝えたいのかが分からない。観ながら ( ゚д゚)ポカーンとしてしまう、それも最初から最後まで。おそらく、原作の持つマジックレアリスムを表現するため映像の怪奇さと複雑なカット割りを多用しているのだと思うが、これを映像化すると途端に意味不明になってしまう。非常に由々しきこと。そりゃマルケスでなくともクレームをつけたくなるわ。
一つ一つの演技や表現に原作に登場する人物たちのキャラクターが投影されているのが分かるのだが、それは複数の登場人物なので、映画内の分家の男と本家の主人、二人にまとめられるのは何とも無理やりすぎる。100年の中で起きるブエンディア家の男たちの生きざまが、熱く眩しくもあり卑俗な人間臭さもあり、それが魅力の一つなのに映画からは感じられない。陰の主役のブエンディア家の女たちは家を守る者、愛欲を欲する者、愛欲から憎む者等々、原作は人間の持つ普遍的な欲望が濁る大河に巻く渦のように物語を盛り上げるのだが、映画にはそこまでの大河的なドラマはない。
最終的には分家の男の妻役、小川眞由美のドラマに終始している。欲求不満から悶える表情には、自分はエロを通り過ぎて恐怖しか感じなかった。分家の男役の山崎努は本家の主人を刺殺してから次第に狂っていく。目を見開き、物の名前忘れて叫んだり、半紙にその名前を書きなぐっている顔が怖い。原田芳雄も享楽的で横暴な本家の主人を演じており、欲望を剥き出しする鬼気迫る姿は人の業を感じる。分家の男が靴で米を炊こうとするのをたしなめるやり取りはこの映画内でもっともコミカルだった。この三人は映画の演技を理解しているので演技は自然。が、その他の端役の人たちは劇団員が多いため、一つ一つの演技が舞台を意識した表現となり、正直大きくてクドい。ちょっとしたやり取りや会話に大ぶりなアクションがつくのが自分にとっては違和感だらけだった。
マルケスサイドのクレームのため、「百年の孤独」を原作としたことは知られても、クレジットすることができず、別のオリジナル映画作品として扱われている。それは納得。ガルシア・マルケスが描いた内容から乖離が激しい。寺山修司が「百年の孤独」からインスピレーションを受けて作った作品と割り切るべきだと思う。なので、寺山修司ファンからは高評価を得ているが、自分のような前衛演劇に関心が薄い人間には「?」の連続だった。
最後に。「百年の孤独」にはもう一つ主人公がいる。それはブエンディア家一族が拓いた、蜃気楼の街マコンド。未開の土地から人々が暮らす大きな街へと発展し、物語の最後にはブエンディアの男と共に滅びる街も主人公だと思っている。この作品の村も似たような結末を迎えるが、マコンドのような街としてのうねりが感じられなかったのが一番の不満。やはり大作を映像化するのは困難だ。
追記 この度某動画配信サービスが、百年の孤独を映像化すると発表があった。今年も原作を読みつつ、大丈夫なのかと不安が大きい。それでも観たいと思ってしまうのがファンである。栗の木につながれる描写や小町娘の昇天、4年続く雨とかどう表現するんだろ。サービス、申込しようかな…。