DAY209 『ない』という世界はあり得ない、という話。
不安や不足に目を向けると、途端に不安や不足の気持ちで満たされる。お金がない、時間がない、余裕がないなど、とにかく『ない』ベースで世界が構成されていく。
少し前までなら、この『ない』ベースの世界が自分の住処だった。でも今はどこか、古巣みたいな感覚になりつつあるのだ。
既にある、という概念をインストールしてからというもの、『ない』が出てきたら片っ端から疑ってみるということが癖づいてきた。
お金がない、それほんとに?みたいな。
そしてすべてはハッピーエンドな結末を迎えるための演出に過ぎなくて、どうせ最後にはうまくいくしかない、と思うようにもしている。
落ち込んだり、不安になったり、イヤだなと思う出来事は相変わらずある。でもその出来事の中に入り込まないで、俯瞰できている自分がいる。なんなら、俯瞰した自分すらも俯瞰している感覚だ。
朝、目覚まし代わりのテレビが点くと、ちっとも嬉しくも楽しくもない出来事ばかりのニュースが続く。数分でテレビを消す。
世の中で起きていることも確かに大事かもしれないけれど、わたしはわたし自身のご機嫌を麗しくするのがいちばん大事。
事件事故紛争のニュースより、目の前の空や大地を感じながら、新鮮な空気を吸い込んで歩く散歩道のほうが、今のわたしにとって、はるかに大切なニュースを運んでくれる。
少し先の未来さえも、心配しようとすればいくらでも心配できる。ならば逆に、ワクワクしようとすれば、いくらでもワクワクできるということだ。
かもしれない、を悪い方向に使わず、もっともっと素晴らしい人生になっちゃうかもしれない!と思っているほうが、断然幸福度が高い。
とはいえ、『ない』の古巣に帰省することが時折ある。でも無理矢理に思考を転換するのは似非ポジにしかならないから、そうだねぇ確かにないようにも見えるねぇ、となだめつつ、でもそれほんとに?と問うてみる。
なんなら、『ない』ように見える、という状態が『ある』、それだけだ。
本当の意味で、わたしには何もない、という状況に陥ることは不可能だ。少なくとも肉体があり、魂が宿っている。
ない、なんて未来永劫あり得ないのだ、というタイプの『ない』に辿り着いたら、もう優勝だ。
肉体があれば、何かをクリエイションできるし、肉体が尽きても魂は生きたままだ。何処までいっても『ある』と分かったなら、ないものねだりしてないで『ある』の世界線を生きたほうがいい。