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秋、栗拾い、栗ご飯 #ニュージーランドの湖畔暮らし

薪ストーブ、秋晴れ、夜空、スープ…。
4月のニュージーランドは秋の始まりです。だんだんと冷え込み、夏が恋しくなるときもある。けれど、指折り数えてみれば意外にも、この時期ならではの醍醐味も多いと気づく。

中でも、我が家の一大イベントが栗拾いだ。先日、近所へ栗を拾いに行った。ニュージーランドの人は、「栗は牛の飼料」という意識で、食べないのだそう。なので、この集落の中では私たちがこの秋の味覚を独り占めできるのだ。

準備万端の服装で森へ行く。トゲが痛くないように、軍手ををして、トングとバケツを持って。♫大きな栗の木の下で、と息子が歌いながら栗を拾う。

最近、「forage」という言葉を友人から教わった。採集の意味で、今流行り出しているのだそう。歩いて食料を確保する、そんな人が増えている。まさに栗拾いはForageそのものだと思う。

また、歴史をさかのぼれば、私たちの祖先は600万年もの間、狩猟・採集をしていた。
それもあってか、栗拾いをしていたら、身体が、DNAが、奥底の自分が喜んでるのを感じた。次から次へと夢中に栗を探し出し、胸が高鳴る。探検をしているような、高揚感。森の生活をしていると、そんな太古の生活と自分が重なる瞬間がある。

イガの中にはそれぞれ栗が3個入っていた。栗は熟すと、殻を破り、はぜて木から落下する。黒光りしていて、肌艶がツルツル。日焼けした小麦色の肌みたいにエネルギーが溢れている。
秋の澄んだ空気の中、落ち葉や空になったイガの上をザクッザグッという足を立てながら歩くのも心地良く。30分ほどで100個ほどの栗を拾い、家に持ち帰った。

採集した栗

さぁ、ここからが大仕事。一日ががりで、栗の渋皮煮、栗きんとんを作り、栗ごはんを炊く。鬼皮を剥く作業は骨が折れるけど、しばらくのおやつとご飯が栗づくしになる嬉しさはこの上ない。パンケーキやケーキに栗を混ぜたり、なんにでも栗を入れたくなる。自分たちで採集したという喜びも加わり、毎回テンションが上がる。
まるで、栗祭りのよう。

栗拾いをした日の晩ご飯は、栗ご飯。


ニュージーランドでは、日本のように天津甘栗がコンビニやスーパーで手に入らないので、本当に「この時期だけのお楽しみ」。
森は折々に、楽しみを食卓に運んでくれる。

栗を拾った場所を通る度に息子は「栗あるかな?」と言う。
思い出が増えるごとに、土地への愛しさが増していく。


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