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思考漱流 : 自由の臨界点

私達は情報に溺れている。それは、現実世界の喧騒もそうなのだが、インターネット上においても、昼夜問わずして奔流するものであり、これが結構やかましいのである。

思えば、インターネット以前の時代で、最新の情報を得る手段といえば、おおよそテレビか新聞くらいなもので、それも、私達は受け取るのみであった。一般人が発言する機会など、尚更、存在しなかったのだ。

しかし、今や誰でも自由にコンテンツを発信できる時代である。メディアと同等に影響力を持つ個人、インフルエンサーが職業として台頭し(彼らはYoutuberやTikTokerと呼ばれるが)、若者は複数の(やかましい)インフルエンサーをサーフィンする事で、大量の情報を仕入れるようになった。

ところで、今日ではフェイクニュースが問題となっている。これは、大勢を陽動して自己顕示欲を満たす、いわば愉快犯による犯行だけが要因ではない。伝言ゲームのような情報伝達による曲解の結果、ということも有り得るし、政治的思想、プロパガンダの拡散ということもある。もしやすると、エンゲージメントが広告収入に直結するインフルエンサーのビジネススタイルが、派手な見てくれのフェイクニュースの量産を加速させている、ということもあるのではないのだろうか。

こんな訳だから、私達はインターネット上で渋滞する大量の情報の真偽を、素早く見極めることが求められる。しかし、公正な審議を突き詰めてみると、これがどうもうまくいかないのだ。何故なのか。

そもそも、情報の真偽というのは、権威に依存することになるからだ。

インターネット黎明期には、インターネットは国境を取っ払い、私達を自由にする、という、ある種の神話のような考えがあった。昔こそ大真面目に考えていたものだが、悲しきかな、なんと現代ではインターネットが国境や宗教を境に分断される、という事態が起きている。いわゆる「スプリンターネット」である。

具体例としては、中国の金盾やアラブの春に見られる国家による検閲や、法・条約による規制などが挙げられる。より商業的なものでいえば、大企業によるビッグデータの集積及びパーソナライズ化による囲い込み(フィルターバブルのように、多数の相対的ノードから、内向きのベクトルによる、特定の集団への迎合や最適化)だろう。

このようにして、情報に距離・国境の概念が生まれ、今やインターネットは、権力に依存する構造を持つ。つまり、より中央集権的となった。

これで、今まで牧歌的であったインターネットは分断され、その中で私達は大量の情報を、フーコーの謂う生権力による(恐らく歪曲した)自らの意思によって取捨選択するか、或いは選択を留保して全て飲み込むか、そのどちらかを選ぶことになる。

こう考えてみれば、この問題は、単なるインターネット上の情報の渋滞ではなく、もっと複雑で内面的な問題、そして、個人に起こった問題であるように思えてくるだろう。

現代の私達は、大量の情報に惑わされながら生きている。それは、情報処理のオーバーフローではあるが、ただキャパシティが足りないというだけでなく、身動きが取れなくなることを意味している。つまり、完全な判断材料を失っている、ということである。そしてその弊害として、集合知が機能不全に陥いる。

インターネット上の資本競争が激化する現代社会において、個人を取り巻く情報は既にお膳立てされたものであり、大抵は偏った情報である。この状況下で民主主義を執り行うのならば、それは既に、権利を縦にした権力による、新たな(不)自由に造成された、と言ってもいいだろう。このプロセスはインターネット以前の時代には成り立たなかった。民衆が情報を統治する程に、情報が整然とされており、尚且つ流通量がなかったからだ。

マルクス主義的であれば、資本が人を不自由にした、と述べられるのだろうが、この場合、情報が人を不自由にした、ということになる。

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