「コンテクスト」と「間(ま)」、「リテラシー」について。
連休をはさんで、少し久しぶりのnoteです。今日は少し抽象度の高いエッセイのような内容になりそうなことをあらかじめお伝えしておきます。
前回、【あなたの「答え」と誰かの「答え」】というタイトルでnoteを書きました。そのとき、「正解はどちらでしょうか?」という問いから始めたのですが、今日は逆に「間違う」って何でしょうか?という問いから、私のモノ思いを始めます。
辞典では、「間違う」は「あるべき状態や結果と異なる。違う。」と記されていて、「不正解」と同義だということが読み取れます。「間(ま)」と「違う」に言葉を分けて考えてみると、「間(ま)」には正しさに関わるような意味合いは含まれていません(広辞苑で詳しく調べましたが「物と物、または事と事のあいだ」や「ある事にあてる一続きの時間」などがあり、「道」のつく武術や文化、住居や暮らしの中にも用いられる日本人に特有の概念でもあります)。「間(ま)」が「違う」、「間(ま)」を「違える」と考えると、言葉そのものには正しさに関する要素は含まれていないのです。そこで私が思ったのは、誰かの「問い」とそれに対する自分の「答え」は何らかの「コンテクスト」(一般的には文脈と訳されますが、モノゴトの前後の関係や、そこに至るまでの脈絡などについて使われる言葉と理解しています)の「間(ま)」で考えられていて、「答え」を考えた「コンテクスト」の「間(ま)」と、それを問うた誰かの「コンテクスト」の「間(ま)」とが一致しなかったとき、「間違う」という状況が生まれるのかな、ということでした。
なぜそんなことをグルグル考えていたのかというと、私(ひと)は「間違う」ことをどうして恐れてしまんだろう、どうすれば「間違う」ことについて新たなとらえ方ができるだろう、ということを切に感じているからです。学校の勉強に限らず、世の中にあふれているさまざまな問題に、わかりやすい「正解」だけを求める人が多すぎると思ったのです。テレビやインターネットで誰かが「正解」らしいと取り上げたその情報を、今それだけが本当に「正解」なのか、ということを疑わないまま飛びついてしまう。子ども以上に大人がそういう行動をとってしまうことに、私は今ものすごく危機感があります。学校の勉強や試験問題のように、決まった「コンテクスト」の「間(ま)」で問いが立てられ、誰にとってもこれだけが「正解」という問題は世の中にはほとんどないと思います。偉いとされる人や、影響力の大きい時の人が「正解らしいこと」を述べたら、それが自分にとっても「正解」であり得るのかを、自分自身で検討したり、検証する術を多くの大人が持っていないような気がするのです。何が「問われ」ていて、どれが「正解」となり得るのかを自分で考える以上に、「間違う」ことを恐れ、周りと自分の「答え」を合わせて「間違っていない」と安心したいのでしょうか。
ここで言う「間違っていない」は、社会や世の中に当たり前にあるように感じている「コンテクスト」、いわゆる世間や多くの茶の「間(ま)」と「違っていない」といったところでしょうか。それがあなたにとって本当の意味での「正解」であるかは誰にも分かりません。ただし回答者の責任は、「正解らしき答え」の言い出しっぺではなく、それを選んだ自分自身にあると思うのです。例えば「今どんな服を買うか?」みたいな直近の些細な問いの答えであれば、トレンドという名の「正解らしき答え」を選んだ結果、自分にとっては「間違った」としても、せいぜい「無駄遣いになってしまった」程度の損失で済みます。でも、今「間違う」ことを恐れて慌てて選ぼうとしている「正解」らしき答えが、その後の自分の人生や社会全体に関わるような長く大きな「問い」だったとしたら、どうでしょうか。私たちは今「間違う」ことを恐れるのではなく、たった一つの「正解」などどこにもないことを知って、自分の頭で考えることから始めることができるはずです。
自分自身の「コンテクスト」、誰かの「コンテクスト」、あなたの「コンテクスト」、ありとあらゆるモノゴトが「コンテクスト」をもっていますし、「問い」や「答え」を考えるための「コンテクスト」と「間」は本当は無限にあるはずなのです。その中で、目の前にあるモノゴトについて、どの「コンテクスト」との「間(ま)」で「問い」を理解し「答え」を選ぶのかを、それぞれが考え、自分と異なる「コンテクスト」についての対話を始めることが、今ものすごく大切になっていると思います。隣の人の答えと自分の答えが同じ(「間違って」いない)かどうかを確かめて安心するために聞き合うのでは意味がありません。相手と自分の「答え」が違うのは、どういった「コンテクスト」の「間(ま)」の違いから来ているのか?ということを対話をもって理解し、改めて考えるということです。
ここでやっと「リテラシー」という言葉を持ち出しますが、あるモノゴトに対して、どんな「コンテクスト」の「間(ま)」で考えられるのか、をある程度理解できていることが、「リテラシー」なのかな、と今回のこのモノ思いを経て改めて考えたりしました。「リテラシー」とは、原義的には「読み書き能力」と訳されますが、「物事を正確に理解し、活用できること」という意味合いでも使われます。あるモノゴトにまつわる主な「コンテクスト」を理解した上で、どのような「間(ま)」で今ある「問い」やその「答え」を考え得るかを自分の頭で考えられることが、今こそ必要な「リテラシー」といえるのではないでしょうか。最終的にはやっぱり「国語の力」って大事なんだよな~という私自身の「コンテクスト」の「間(ま)」に戻ってくるわけですが(笑)。それ以上に、「間違う」ことを恐れないで、むしろ自分の「答え」につながった「間(ま)」と「コンテクスト」の違いを探っていけば、新たな「答え」や自分にとっての「正解」にたどり着くきっかけを見つけることもできるはず。そんな「間違う」ということの可能性を、今日はお伝えしたかったのでした。
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