The Lost King~失われし王ルイ=シャルル第一部(2)男爵ジャン・ド・バッツ
Ⅱ. 男爵ジャン・ド・バッツ
十月同日の夜、アルマンチュー男爵ジャン・ド・バッツは、ショワズール公爵邸 【註1】の裏、メナール通り某所にある、豪奢だが落ち着いた部屋で書きものにいそしんでいた。彼はカーテンを引いて蝋燭の明かりで作業しており、室内では暖炉に赤々と火が燃え盛り、丸太に混じった松毬の発する芳香が漂っていた。
この驚嘆すべき人物、当時のヨーロッパにおいて、最も果敢に王党派を利する為の活動をしていた男は、秘密工作員としては類を見ぬ豪胆を備えていた。彼はまるで、危険に備えた用心というものを潔しとしておらぬように見えた。己の正体をベールに包む手間などめったにかけずに、彼はいつであれ必要とあらば、身をさらした状態で何処にでもおもむき、焼けた石炭の上を涼しい顔をして裸足で歩く者のように危険な場所に踏み込んだ。
己の身が罠網で包まれた時、余人ならば半狂乱になるか無駄に足掻き苦しむであろう処を、ド・バッツは黄金の鋏で静かに網を切り、するりと通り抜けるのである。これほどまでに賄賂の使い方を熟知した者は他におらず、これほどまでの大規模に買収という手口を駆使した者も彼より他にはいなかった。潤沢な黄金とは別に、彼には自在に供給可能な共和国紙幣が無尽蔵にあったが、それはシャラントンで秘密裏に稼動している自前の印刷機で刷られたものであった。この偽札は、彼に無制限の資金力を与えただけではない。紙幣価値の恐ろしいまでの暴落を加速する事によって、王党派の目的に貢献したのである。
彼の間者は到る処にいた。公安委員会の全議事録は、彼と内通しているセナールという秘書によって即座に漏らされていた。そして革命裁判所を唯一の例外として、彼の便宜を図るように買収された役人がいない政府の部署は存在しなかった。にもかかわらず、ルイ十六世の命を救わんとした企て、そして後日に試みられた王妃と御子たちをタンプル塔から救出せんとする企てが成功裏に終わらなかったのは、彼には予測不能の障害をもたらした運命の悪意によるものだった。これら一連の計画を企てたのが彼である事は判明しており、他にも共和国政府に対して死刑相当の様々な罪を犯していたにもかかわらず、ほとんど捜索もされず、自由に活動を続けられたという事実、それは己の身を守る為に彼が駆使した財の力を示す充分な証明となるであろう。
彼の風采はといえば、中背で姿勢の良い、凛然たる美丈夫であり、鼻と顎は押しが強く、目は生気に満ちていた。今、彼はコートとベストを脱いで、フリル付きのシャツと黒いサテンのぴったりした膝丈キュロットという姿で座っており、その艶やかな黒髪は、過激な平等主義がはびこる以前と変わりなく、下げ髪を垂らすスタイルに整えられていた。
時折、棚の上に置かれた鍍金時計に目をやりつつ、彼は書きものを続けていたが、それも予期していた物音に遮られるまでだった。年配の使用人ティッソが、市民ラサールを案内してやって来たのであった。
ド・バッツは椅子に座ったまま半身をひねると、訪問者に向き合った。
「遅かったな、フロランス」
ラサールは、その強健な痩身にきっちりと着込んでいた暗緑色の乗馬コートのボタンを外した。彼は円錐帽を脱ぐと、長く伸ばした犬の垂れ耳スタイルの艶やかな黒髪を振り出した。
「随分と長い尋問で、最後までは立ち会えませんでした。ダヴィッドは、終わりまで待ってはいられなかったんです。夕方の議会は反革命容疑者法【註2】についての議論なので、我らがリュクルゴス【註3】は自分の席に着いている必要がありましたから。エリザベート内親王が奴らの汚い手で取調べを受ける直前に、俺はダヴィッドと一緒にあの場を離れなければなりませんでした。なにせ、彼の引き立てのお陰で、随行者としてタンプル塔に潜り込めただけの立場なので」
彼には物憂げに、ゆっくりと話す癖があったが、それには至極抑制された話しぶりの中にも、冷笑しつつ半ばおどけたような調子をもたらす間延びした発音が伴っていた。そのような話しぶりが、無遠慮で図太そうな青白い顔や力強い口に組み合わさると、笑みを浮かべても余計に皮肉めいて見えるだけであった。
「何があった?」ド・バッツが尋ねた。
「思いつく限り最低な、底の底というのを想像してみてください、それでも、あの紳士方の反吐が出るような作り話までは届かないはずですよ」彼は胸がむかつく思いで、タンプル塔で目撃した一部始終を詳細に説明した。「あの少年は、自分が何を話しているのか理解していなかった。あれは丸暗記するように仕込まれた話で、あの子の判断力は鈍らされていたんです。尊大で我が強く、言う事だけは威勢のいい、大人の男の猿真似。あの悪党どもは、あの少年が用済みになる前に、精神を完全に腐らせてしまうつもりですよ。それから、あの少女。連中の汚い手が穢れない純真のベールを引き裂いた時、あの娘は持って生まれた性質を根こそぎ変えられるような衝撃を経験したはずです。激しく苦悶しながら、彼女はあの不幸な少年に向かって怒りをぶつけていた。本当に酷い光景でした。子供たちが、あんな風に利用されるのを見せられるとはね!」彼は懐中から画帳を取り出した。「多分、この時の強い感情が、ダヴィッドがいつも俺に欠けていると言う天啓をくれたんだと思います」彼はド・バッツの前に、開いた画帳を差し出した。「如何です?」
しかし深い思いに沈んだ男爵は、ラサールの絵に目を向けなかった。
「この不快な手口はエベールだな。奴は王妃を確実に断頭台送りにする必要に迫られているのだ」
「殺すだけじゃ足りないんですか?寄ってたかって、あの女性に泥を塗りたくる必要が、何処にあるんです?神は眠っているんですか?」
「神?神に何の関係があるというのだ?」男爵の抑制された声には、悲壮な嘲りが含まれていた。「これまで神に向けられた最も悪質な侮辱は、神が自らに似せて人間を創ったという主張だ。人間!悪意に満ち、貪欲で、偽善的なる人間、悪の攻撃に対しては、あらゆる点で隙だらけの存在だ。さあ、真実を直視したまえ、フロランス、君がまだ若いうちにね。そうすれば君は多くの過ちを犯さずに済むはずだ。人間の本性は、善ではないのだよ」
ようやく彼の視線はスケッチの上に落ち、たちまち其処に釘づけになった。彼は首を振った。「悲劇的な絵だ。哀れな御子よ!」
ラサールは己の画業を披露する誇らしさのあまり、その悲劇を意識の外に置いていた。彼は描画の持つ力に関するダヴィッドの称揚を引用し、雄弁な描線を指摘して、それに比べれば元になった現実の苦しみなど取るに足りぬものであるかのように語った。熱弁は無駄に終わった。何故ならば、ド・バッツにとって重要なのは、その肖像画によって伝えられたものであり、それを伝えた手段ではないからだ。
その痛ましい絵に描かれている、陰険な表情によって半ば隠された少年らしく愛らしい顔が、彼を強烈に揺さぶった。
彼は突然、熱情の突風がほとばしるように語りだした。
「神、我を助けたまう。如何なる犠牲を払おうと、例え我が手でタンプル塔の壁を崩さねばならぬとも、私は必ず、あの御子を救い出す。フロランス、これは君の助力にかかっている」
ラサールの目は丸くなった。彼の唇は怪しむような形になった。「それは難しいでしょう」
「そして危険だ。往々にして、成すべき価値のある事というのは、そのどちらかであるか、あるいはその両方であるかだ。だが、困難や危険は少ないに越した事はない。君を当てにしても良いだろうか?君は問題の場所を知っている。先刻まで其処にいたのだからな」
ラサールは豪胆な性分であったが、しかし無謀ではなかった。彼は冷静で論理的、そして感傷とは無縁の男だった。男爵の密偵頭の一人として、既に彼は大胆かつ熟練した仕事振りを見せていた。任務の遂行を可能にする為に、急進的共和主義者ダヴィッドの生徒兼助手である彼は、これみよがしに進歩的かつ活発な革命家として振舞ってきた。彼はジャコバン・クラブとコルドリエ・クラブに加わり、コミューン議会の選挙に当選して、自分の自治区の代表として議席を得てもいた。これにより、彼は情報源を直に観察していたのである。そのようにして情報を探った彼は、何らかの国家的重要性を帯びる可能性のあるスケッチの作成を口実にして、自分をタンプル塔に同行させるようにとダヴィッドを説き伏せる事に成功したのであった。
しかしながら先程の申し出は、絶望的に危険であるのみならず、破滅が運命づけられているように思えた。彼はためらい、眉を寄せた。
「成功の可能性がゼロでないのなら、協力するのにやぶさかではないのですが」
「よろしい。この問題を可能にする話をしようではないか」
夕餉の席で、彼らは更にそれについて論じた。ド・バッツと食事を共にする為に、つまりは急騰している食料品の法外な代金を支払う余裕がある者の物惜しみしない食卓を目当てに、ラサールは留まったのである。革命家や観念論者や利己主義者に、富の公平な分配という約束で騙された不運な民衆が得たもの、それは窮乏と飢餓だった。無論、貧困者の為には給付金が用意されていた。国家の減衰にはつきものの制度である。それは自治区の会合に出席すれば得られる事になっていた。だがそれは、一週間に、たったの40スーにしかならないのだ。パンが1ポンドにつき30フラン、そして専制政治の時代には一瓶が8スーだったワインは今や20フラン以下では買えないというのに、40スーが何の足しになるというのか?パレ・ロワイヤルのレストランは繁盛していた。劇場と賭博場には常連客が通っていた。革命の恩恵を受けた者たちは裕福になり、たらふく飲み食いしていた。だが、専制君主の支配という溝から救い出されたはずの民衆は、専制君主が玉座にいた時代には想像もしなかった悲惨の深淵にはまり込んでおり、彼らがその軽信性によって己の目隠しの結び目を自らの手で固くし続ける限り、この国の状態は変わりなく続くだろう。
それについて、ド・バッツは以下のような表現を用いて示唆した。「私の計画が成就せぬ限り、自分が食いものにされている事にすら気づかぬ愚か者たちは、偽善的な標語を頭に詰め込まれ、空っぽの胃袋を抱えて、正気に立ち返る事もかなわぬままだろうな」
「それで思い出しましたが」ラサールは告げた。「明日の夕食代を持ってないんです」
「君が私を訪ねて来る時は常にそうだろう」
「おっと、貴方を訪問する時に限った話じゃありませんよ。ほとんど素寒貧なんです。ブーツには穴が開いたままだし、他にも…」
男爵は彼の言葉を遮った。「君には一週間前に千フランを渡したはずだが」
「千フランぽっちが何になるんです?アシニャ【註4】の価値がどんどん落ち続けてるのは、御存知でしょう?この御時世じゃ、千フランは金貨一枚の価値もないんですよ。それに」と彼は物憂げに言った。「貴方の刷った紙屑が流通の中に入り込めば、その分、革命政府の財政破綻が進むんじゃありませんか?」
「君は常に尤もらしい科白を吐く。しかし、私は金の事だけを考えている訳ではない」厳格に、刺すような視線が、当惑の滲むラサールの顔に向けられた。「時折、判断に迷うのだが、君は大義の為に働いているのかね?それとも私から受け取る金の為に働いているのかね?」
ラサールは微笑まずにいられなかった。「愚問ですね!その両方の為に働いてるんですよ。はっきりさせておきましょう。貴方の金なしじゃ、俺は生きていけませんよ、なにせ、革命に身ぐるみ剥がされましたんでね。俺が相続するはずだった地所も、奴らが伯父の首をはねた時に没収されました。俺が金で動く人間だと判断するなら、どうぞ御自由に。それだって、俺を信用する根拠としては充分なはずですよ。俺は王党派の為に働かなきゃならない。何故なら、俺が自分の土地を取り戻せるかもしれない唯一の希望は、君主制の回復にかかっているんだから。それが上手くいかなかったら画家になるしかない。ダヴィッドからは、俺には芸術家になる為に必要な深い洞察力が欠けているって言われてますがね。無秩序社会には画家の生きる場所はありません、ジャック=ルイ・ダヴィッドみたいに、野外式典の総合演出を仕切るような能力があれば別ですが。如何です、俺の現在と未来、両方とも同じものを頼みにしているのは明白でしょう。この点に関しては、疑う必要はないはずですよ、俺の道徳的な美点は信じるに足らないとしてもね」
「なるほど、君は率直だ。そして無情だ。その若さにしては不思議なくらいに無情だ」
「速く歳をとるんですよ、この腐敗の温床に住む人間はね。そして無情になるんです。しまいにぺてん師になって金をせびるのを恥とも思わなくなる、俺みたいにね。ブーツに大穴が開いてる時に、自尊心が何の役に立つっていうんです、ジャン?」
そのブーツを直す為に、その夜、男爵は彼に偽造紙幣の束ではなく、本物の金貨をひと握り与えた。男爵は、それについては皮肉っぽくも率直だった。
「君は今や、軽々に危険にさらすには貴重過ぎる身になってしまったのだ、フロランス。偽造したアシニャを所持するのは危険だ、それが私の印刷機で刷った出来の良いものであってもな。タンプル塔から救い出さねばならぬ少年がいる。この任務は君が考えている以上に、君の為にあるような仕事だ。君も理解しているように、来るべき王政回復の時に備えて国王を護る事は、宮廷画家となる為の最も確実な道なのだから」
「シャルロットの籐籠【註5】の中に俺の頭が転がり落ちていなければね」ラサールは金貨をポケットに入れた。「どちらの道かはコインの裏表みたいなものですから。行動方針が決定したら、すぐに知らせてください」
しかしながら――作戦展開の――決定に到達するまでに、ド・バッツは三ヶ月を要した。その間に、不幸な王妃は元々の罪状に加え、実の息子が意図せずして告発者となった複数の余罪で起訴されて、詮議が始まる前から既に決定済みの有罪判決を下された末に、革命広場へと荷馬車で運ばれていった。そしてサントノレ通りに面した窓から見物していたダヴィッドは、名人技による素早く、恐ろしく、冷酷な筆さばきによって、今日の我々にも良く知られている、かの女性のスケッチ【註6】を作成したのであった。彼はルーブルの北分館にある自分のアトリエにそれを飾り、特にラサールに対して、その妙技を手本として示した。
依然としてラサールは、タンプル塔で描いた三つのスケッチを基にしたルイ十七世の肖像画に取り組んでいた。そして、ようやく描きあがったものは、クシャルスキ【註7】が約十八ヶ月前に描いた肖像画と非常に良く似ていた。ダヴィッドは、それを単に出来の良い職人芸に過ぎぬと決めつけて酷評したが、それはいささか厳し過ぎる評価であったかもしれない。その絵は、モデルとなった人物の特徴を非常に良く捉えていたのだ。師匠を満足させる為に、ラサールは更に大きなカンバスに描き直したが、それは前作にも増して型にはまりきった出来であった。
其処には、ダヴィッドがラサールによるスケッチの一枚に見出して彼のねじくれた心を大いに喜ばせた、あの陰険な薄ら笑いは失われていた。しかしながら、いくら師が辛辣な嘲りを浴びせようと、彼の弟子がその肖像画の中に、あの邪悪な攻撃性、少年の顔に浮かんだ一瞬の表情を完全に再現する事はできなかった。ラサールは再度、今度はほぼ細密画に近い小品を試してみた。彼はその一つの主題に取り組む事に三ヶ月の大半を費やし、目隠しをしたままでも小さな国王の肖像画を描くのが可能なまでに、全ての線と面を記憶するに至った。
ある日、彼はそんな日常が、たまらなく可笑しくなった。世界が激動し、国境には他国の軍隊が押し寄せ、テュイルリー庭園の向こうではギロチンが日々の刈り入れにいそしんでいるというのに、自分はといえば、絵に描かれた顔や、彼の欠点についてくどくど不平を並べる師匠について思い悩んでいるのだから。
ド・バッツから行動開始の連絡がようやく届いたのは、そのような時だった。
訳註
【註1】:ルイ十四世時代の財産家アントワーヌ・クローザの大邸宅。クローザの孫娘との結婚により、エティエンヌ=フランソワ・ド・ショワズール公爵の所有となった。
【註2】:1793年9月17日国民公会にて採択。「反革命的行動」という曖昧な罪状による恣意的な告発を可能にし、恐怖政治を加速させた。ダヴィッドは保安委員会の委員として300以上の政治犯の逮捕状に副署している。
【註3】:スパルタの伝説的立法者。
【註4】:革命期のフランスで使用された紙幣。本来は公債券だが、正貨が不足していた為に通貨として流通された。革命期のハイパーインフレの原因のひとつ。アッシニア。ちなみに通貨単位が正式にフランに改められるのは1795年になってから。
【註5】:斬首刑後に死刑囚の頭を入れる為の柳籠の俗称。
【註6】:ルイ・ダヴィッド作『Marie Antoinette conduite à l'échafaud 処刑台に向かうマリー=アントワネット』オリジナルはルーブル美術館所蔵。(作者のJacques Louis David は1825年没につき本画像はパブリックドメインである)
[註7]:アレクサンドル・クシャルスキ(1741年3月18日 − 1819年11月5日)
ポーランドの肖像画家。マリー・アントワネット専属の画家となり、当時の王族の肖像を多数手がけている。代表作『Louis Charles, Dauphin de France』『Marie Antoinette au Temple』
【註7】:アレクサンドル・クシャルスキ(1741年3月18日 - 1819年11月5日)
ポーランドの肖像画家。マリー=アントワネット専属の画家となり、当時の王族の肖像を多数手がけている。代表作『Louis Charles, Dauphin de France』『Marie Antoinette au Temple』