The Lost King~失われし王ルイ=シャルル第一部(8)絵筆に別れを
Ⅷ. 絵筆に別れを
ラサールは、彼自身に責任を帰すべき現在の状況に不安を感じてはおらず、彼が何らかの保身策を講じたり、それまでの生活様式を変更したような形跡は見られなかった。
自らの愚行によって立場の危うくなったショーメットは、沈黙を破って己の首を危険にさらすような挙には出ず、それどころか保身の為に、シモンの私欲のお陰で失敗したと思い込まされたぺてんを取り繕い続けるはめに陥っていた。ラサールによって容赦なく騙されたシモンは、実行に移せばあの画家もろともに自分自身もギロチン行きになる末路しかない告発を、空脅しで口にする事しかできなかった。可能性としては極めて低いが、ショーメットとシモンが情報共有し、両者が共に狡猾なラサールに利用され、ハメられたのだという裏のからくりを悟るに至ったとしても、彼らには逆襲する力はなかった。何故ならば、事が表沙汰になれば、彼ら自身にまで罪が及ぶのは確実なのだから。
それからの数ヶ月、ラサールに関しては特筆すべき事もなく、王党派の活動に励んでいない時には、常と変わらずダヴィッドのアトリエで熱心に働いていた。画業で身を立てる事を熱望する身としては、芸術が莫大な金になり、盛大に繁盛し得る唯一の社会制度と信じている王政と貴族社会の復活を助ける為ならば、自分はあらゆる努力を惜しまぬと決意している、というのが当人の言である。この告白に見られる、愛想に包みながらの人を食ったような言動は、これ見よがしの英雄気取りに対する彼の露骨な反感の証拠となるものだった。
彼が先ほど記したような考えを披露した際に、ある亡命貴族から私利私欲と責められたラサールは、次のように己の行動原理を語ったという。「だから何です?貴方は本気で俺が真っ当じゃないと思うんですか?何処の国の、どんな人間だって、誰もが自分に都合の良いように政治をこね回して、色を塗りたくってるんじゃないんですか?貴方がたコンデ軍【註1】の紳士たちは、盛大に勇ましく、自分の血を流す気満々、他人の血を流す気は輪をかけて満々だ。それは王党派の大義の為であって、自分にとって一番都合の良い社会体制を復活させる為や、現体制に没収された富と贅沢品を取り戻す為なんかじゃないっておっしゃるんでしょうね。でも、この事実を否定できますか?俺は王党派の大義の為に、戦場で血を流すよりも目覚ましくて危険を伴うような奉仕を、自分の流儀で行なってきましたよ。我々の違いは、俺の方が貴方がたより正直というだけですよ。俺は率直に労働の目的を認めます。俺は額に月桂樹を巻きつけて、世に向かって『献身的な英雄を見よ!』なんて叫んだりはしません」
彼は争いと混乱の渦中においても平静な態度を保ち続け、コミューン議会には――自分の自治区の議員として――規則的に出席し、其処で討議された議題と、1794年の前半には着実に暴力性が高まっていった世論が、それに如何なる反応を示したかを観察し、ド・バッツに報告したのであった。
何故ならこの時期は、共食いの狂乱によって革命が己の身体を貪り喰らう日々であったからだ。国民公会は血の悪臭を放つ闘技場だった。権力を手にする為の窮余のあがきから、ショーメットは力を増すロベスピエールに抗するコルドリエ反乱【註2】に加担した。彼の行動は友人であるフーシェからの手紙に刺激された事にも一因があったかもしれないが、そのフーシェの方は、パリの武力抗争が決着するまで口実を見つけて地方に身を置いておくべく務めていた。ショーメットは下劣な気取り屋のエベールによって反乱に引きずり込まれたのだが、彼はエベール共々、世論とは如何に気まぐれなものか、大衆人気なぞを当てにするのが如何に愚かな判断であったかという教訓を得る事になった。エベールは三月にギロチンに送られた。ショーメットは、ほんの数週間前には彼を半神の英雄が如くに崇拝していた群集が見物する中、口汚い罵声を浴びせられつつ、四月にエベールの後を追った。
これにより、ラサールを破滅させ得る情報を持った人間の内、その一人がこの世から消えた。シモンは依然として恨みと不安と復讐心に凝り固まっていたものの、無力な身の彼には、コミューン議会で顔を合わせる度に、ラサールの礼儀正しい挨拶に対して吼えるように悪態を吐く事しかできなかった。しかし程なくしてシモンはショーメットの後を追う事になった。彼はテルミドールの動乱に足を踏み入れたのである。シモンは己の愚かさによって破滅した。機を見る事のできぬ彼は、熱月9日の夜【註3】、無分別にもロベスピエールを救うようコミューンの演壇で訴えたが、その時、ロベスピエールは既に取り返しのつかない失敗を犯していたのである。状況の人であるフーシェは、この機を見逃さなかった。ロベスピエールはパリにフーシェを召喚していた。これまで、自分を脅かす者は全て破滅させてきた彼は、フーシェをも処断するつもりであったろう。だがそれは、ロベスピエールの人生において最も早まった行動だった。
フーシェは、あえて召喚命令に従った。しかし彼がパリに到着したのは、急速に独裁者と化しつつあるロベスピエールの専横に対し、秘かに叛意を抱く者達にとって唯一欠けているのは先導者だけ、という状況の最中であり、冷静で切れ者の元教授は、目立たぬようにその役割を果たしたのである。それはロベスピエールの、そして恐怖政治の終わりだった。フランスは再び自由に息ができるようになったのである。
それに続いた凄まじく感情的な反動によって、タンプル塔の囚人たちに皆の関心が向けられた。今、其処にいるのは、二人の孤児だけであった。何故ならば、聖女の如きマダム・エリザベートは、既に二ヶ月前、ギロチンに送られていたのだから。
それから間もなくして、王の脱出と替え玉が発覚したと思われる。貴族崩れの遊蕩者にして、卑しい性根の革命家であるバラスが、真っ先にタンプル塔を訪問した。バラスは騙されず、恐るべき発見を自分の胸一つに収めておく事もできなかった。とはいえ、それが国内外で巻き起こす嵐を考えれば、世間に公表する事もできなかった。
情緒本位に傾いた国民公会は、投獄の厳しさに衝撃を受けた。二人の子供たちが引き離され、監禁状態で運動もできず、そして付き添いの者がいない為に、フランス王家第一内親王殿下(彼女も今は十七歳となっていた)が、自らベッドを整え、自ら床を掃いているのだという事実に、皆は憤慨した。
国民公会からは、ムーズの代議士アルマンが、囚人たちに面会し、その様子を報告する役目として派遣された。アルマンは、少年の虚ろな鈍い目つきと、優しく気遣った彼の問いかけに対する徹底的な沈黙を報告している。しかし納得のいく説明が思い浮かばず、彼は第三者による馬鹿げた主張を受け入れた。あの少年は、自分の証言が実の母親に如何なる運命をもたらしたかを悟り、決して再び話をしないという誓約をしたのだと。
アルマンの報告から時間を置かず、この明らかに無実の国事犯たちの幽閉生活には大幅な改善が行われた。姉弟は再び生活を共にするはずだった。彼らには適切な世話係がつけられるはずだった。世話係がつけられ、以後の二人がより快適な待遇を受けて生活した事については、記録が残っている。だが、それ以外の待遇に関しては、決定事項に沿った改善は一切なされなかった。彼らの間に交流が許されなかったのには、止むを得ぬ事情があったのだ、つまり、子供のすり替えという恐るべき秘密を知るに至った政府が、その露見を阻止せんと必死になったのである。
政府はジレンマの最中にあった。大きな政治情勢の変化により、この幽閉を正当化するには日々困難が増していた。極めて近い将来において、正当化が不可能な日が到来するのは目に見えていた。時が経つにつれ、ジレンマは深くなった。それはスペインとの和平交渉が計画され、スペインのブルボン【註4】がフランスの従弟を引き渡す事を調印の条件にした時に不可避となった。同様に、ルイ十七世を救出せんとヴァンデで叛乱を起こした王党派の増援として、我が国の遠征隊を上陸させるとのイングランドからの脅迫もあった。
革命暦第Ⅳ年はこのように進展し、そして恐怖政治の終わりから、八ヶ月あまりの時が過ぎた。
ド・バッツは、常に慎重かつ果敢に、そして政府のジレンマを充分に意識しつつ、細心の注意をもって状況を見ていた。ムードンに慎重に匿われているルイ十七世が王位宣言する事により、テルミドールの動乱から始まった運動を完遂させる好機と見て、彼は秘密裏に自分の手勢を招集していた。これについては、ラサール以上に巧みに、そして勤勉に支援する人材はおらず、その為に彼はルイ・ダヴィッド【註5】から、今や君は画家修業に対する熱意を失ったと非難された。
ダヴィッドは長い間、この弟子を気にかけ、才能を認めていた。それが為に巨匠は非常に苛立ち、歯に衣着せぬ言い方をした。
「既に警告したはずだぞ、絵を描く技術だけでは、芸術家にはなれんのだと。描画は目と手の問題だ。しかし芸術は魂の問題なのだ。君の魂はまだ眠っている。君の魂の目を開かせる為に、私は最善を尽くしている。しかし流石の私も、反応のない石塊を相手にシジフォスの如く働きかけるのには疲れてきているのだ。君の分別は何処にいった。悪い仲間とつき合っているようだな。昨夜、悪名高い反動主義者が何人も混じった集団と共に、カフェ・ド・フォワ【註6】で夕食をとっている君の姿を見かけた。もしも君が政治の道を優先するつもりだと言うのなら、もう面倒を見切れん。君にとっては破滅の始まりだぞ」
だがラサールは、それを破滅どころか立身出世の始まりと考えていた。もしド・バッツが成功すれば、そして――ラサールが男爵に寄せる信頼からすれば疑いの余地なく――ド・バッツ男爵が回復した王政の中で重用されれば、ラサールはド・バッツに重用されるはずだ。芸術的な想像力を、政治的な想像力の為に駆使した彼は、復活成ったフランス王国の名士に名を連ねる己が姿を幻視した。
そして王党派の計画に行動開始の号令が下されんとした、まさにその時――その夢は、夢というものが常にそうであるように、一瞬にして掻き消えた。
バラスと、秘密を共有する他の政府要人は、ルイ十七世の引き渡しに対するスペインの固執が、現在、切実に必要とされている和平の障害であるという見解のもと、実行可能な唯一の方法で、それを取り除く決断をした。あの子供は死なねばならない。そして彼の死に至る経緯は、尤もらしいものでなければならない。したがって、少年の死は六月初旬、病気を理由に二人の医者が往診を依頼された後に続いた。彼らはどちらも生前のルイ=シャルルとは面識がなく、検視を手伝ったもう二人の医師も同様であり、その子供――彼らがそれを指す為に使用した文言は、何処か意味深長である――の死体に検死を行なった彼らの報告書には『委員達が故ルイ・カペーの息子であると我等に述べたる者。』とあった。
死んだ子供は瘰癧【註7】とくる病【註8】という、健康だった頃のルイ=シャルルには全く徴候が見られなかった病名を宣告された。他にも、死んだ子供の髪は明るい栗色であるのに対して、幼い王の髪は淡い黄色だった等、注目に値する点が数多くあった。けれどもバラスの訪問の後に任命された、タンプル塔からのシモンの解任日付以前には一度もルイ=シャルルに会った事がない二名の付き添い人と数名の者たちの証言によって、それが故ルイ・カペーの息子の遺体であるという更なる認定がなされた。この死亡時点においてタンプル塔内に存在していた、彼を本当に識別し得る、ただ二人の人間は慎重に除外された。あのおぞましい宣誓証言の日から、一度も彼とは会えずじまいの実姉、そしてチゾン、かつては国王一家の看守を務め、現在は彼自身がこの塔の囚人となっている男である。
死亡の公表、そして遺体の公式の埋葬はつつがなく完了し、政府はこれ以上厄介者の存在に悩まされる事なく、外国との交渉に進めるようになった。
ルイ十七世逝去の報は、当然の事ながら――現在はベローナに亡命中の――叔父にも伝えられ、遂にプロヴァンス伯爵には、かつて盲目的な悪意から革命勢力に忌まわしい醜聞を持ち込んで与しようとまでさせた、我が身を掻き毟るほど切望する王位を手にする可能性が生まれた。
しかしながら、内親王殿下は暫く後になるまで弟の死を知らされず、そしてこれまた意味深長にも、その時が来てようやく、一年近く前に決定された、彼女が監禁部屋を出て庭に入る自由が許されたのである。
タンプル塔で死んだ子供が、王の替え玉として雇われた不運な知恵遅れの聾唖少年であったのか、あるいは広く信じられたように、政府の難題を解決する為に、死期の迫った年齢の近い子供が連れて来られて第二の替え玉にされたのかなどという問題は、ド・バッツの脳内を占領している思索とは無関係だった。
この事件が彼にもたらしたのは、単に狼狽と失望のみならず、ムードンに隠された子供が突如として危険極まりない立場に置かれてしまったのだという事実に基づいた、恐怖政治時代の最悪の日々にすら覚えた事のない恐怖であった。
彼はラサールにそれを説明した。
「国家の都合で王を殺した者たちは、王には何としても死んだままでいてもらわねば困るのだ。彼らが何よりも恐れているのは、陛下が生きて再びお姿を現す事だ。標的の素性を知らされぬままに、政府の密偵たちは本物のルイ十七世の行方を嗅ぎ回っている。セナール自身は探索の真の目的に気づいてはいないが、その件について私に警告してきた。ブルボン家の血を引く何者かがフランス入りする事が関係しているのではないか、というのが彼の見解だ。率直に言うが、私は怯えている。この国に王の帰還を受け入れる準備が整うまで、我々は幾重にも、あの少年の安全を図らねばならん」
既に彼は、あらゆる手配を整えていた。フランスの君主制回復と利害が一致する諸外国の公吏の中でも、パリに滞在中のプロイセン公使ウルリッヒ・フォン・エンセ男爵は、ド・バッツと懇意の間柄だった。ド・バッツは彼に真実を打ち明け、そしてフォン・エンセは、フリードリヒ・ヴィルヘルム【註9】の宮廷に若きフランス王を自ら送り届ける名誉を任せて欲しいと申し出ていた。ルイ十七世がベルリンで安全を確保されてしまえば、王の生存を全世界に向けて高らかに宣言する事も可能だろう。
それが懸念に迫られてド・バッツが立案した計画であり、実行するにあたって、彼はラサールの助けを求めた。彼はその真意を明かした。国家の運命を背負った子供を、たった一人の男に託すのは危険だ。付き添い役が事故や病にみまわれた場合、少年は孤立無援に置かれて遠からず追っ手に発見されるだろう。もしラサールが同行を承諾してくれれば、この上、別の何者かにルイ=シャルルの生存という危険な秘密を打ち明ける必要がなくなる。そもそもラサールは、この任務にとって他の誰よりも適役なのだ。彼にはタンプル塔からの救出について直接の証言が可能であり、先方が疑念から発するかもしれない様々な質問に対して、理路整然と答える事ができるであろうから。更に言えば、ラサールのこれまでの活動歴が有り余る証明となっている、冷静な度胸と臨機応変の才知は頼るに値する。
「この頼みが君にとって大きな犠牲を意味する事はわかっているのだ、フロランス。これを引き受ければ、君の画業の追及は長い中断を強いられる」
ラサールは、その犠牲を軽視した。理由の一方は、己に課せられた王に対する義務。もう一方は、最終的な成功報酬が確実かつ莫大なものに思えたからであった。プロイセンの宮廷に小さな王を送り届けるのを助け、陛下をお救いし、お護りしたという名声と栄誉に包まれて王と共に意気揚々と帰国する日が来るまでは、後見役という立場でかの地に留まる。この計画に乗らないとしたら、それは余程、要領の悪い人間というしかない。
「ダヴィッドの許での修行と、芸術の道には別れを告げなきゃならないでしょうが。でも、その目的を考えたら……俺に何が言えます?同行させてもらいます、もちろんね」
訳註
【註1】:革命勃発後プロイセンに亡命したコンデ公ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデとその一族をリーダーとして、王党派亡命貴族たちは諸外国軍と協力し革命政府打倒の戦争を仕掛け、またフランス国内の叛乱を扇動した。
【註2】:1794年、エベール派支配下のコルドリエ・クラブがロベスピエール派に対する蜂起を呼びかけたが失敗。クーデター一派は革命裁判にかけられて4月13日の朝に死刑宣告を受け、断頭台へ送られた。尚、実際のショーメットは蜂起には乗り気ではなかったようだ。
【註3】:1794年7月27日、革命暦第Ⅱ年熱月9日、地方で暴走する派遣議員達の牽制を図ったロベスピエールに対し、ポール・バラス、ジョゼフ・フーシェら派遣議員とジャコバン穏健派が結託し逆襲。ロベスピエール、サン=ジュスト、ジョルジュ・クートンらモンターニュ派は失脚し処刑された。フーシェはこの時、ロベスピエールの力を恐れて尻込みする議員達に裏から手を回して扇動し、糾合した。
【註4】:1700年にルイ十四世の孫であるアンジュー公フィリップがフェリペⅤ世としてスペイン王に即位、以後現代に至るまでスペイン王室はブルボン(スペイン語読み:ボルボン)朝である。この時代におけるスペイン王はカルロスⅣ世(1748年11月11日 - 1819年1月20日)。
【註5】:ルイ・ダヴィッドはテルミドール事件後に逮捕投獄されたが、弟子たちの国民公会への嘆願により年末に釈放された。政治活動にのめり込み過ぎた自分を省みての説教であろう。
【註6】: Cafe de Foy モンパンシエ回廊にあったカフェ。借金の返済に困ったオルレアン公フィリップはパレ・ロワイヤルの中庭を改築して売りに出し、一階の回廊部分には多くの店舗が開業し賑わった。庭園内には警察の立入りが禁じられていた為に政治活動家が多数集い、バスチーユ監獄襲撃のきっかけとなるデムーランの演説も、このカフェのテーブル上で行われた。
【註7】:瘰癧(るいれき) 。頸部リンパ節結核の古称。結核菌がリンパ節に侵入し数珠状に腫れる。
【註8】:くる病 。ビタミンDと日光の不足によるカルシウム及びリンの代謝異常。重症になると背骨の湾曲などの骨格異常に到る。
【註9】: フリードリヒ・ヴィルヘルムⅡ世(1744年9月25日 - 1797年11月16日)
プロイセン王(在位1786年8月17日 - 1797年11月16日)革命フランスに対しては強硬姿勢をとり、オーストリアと同盟して軍事介入を行った。