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The Recoil ~ブラッドハウンドとカメレオン

 フーシェは、既に薄くなりかけている赤味がかった髪の下、その表情に内心をうかがわせる事なく、目蓋を伏せ、猫背気味の身体を曲げ戻して、第一執政の激怒の旋風を正面から受け止めていた。彼の死人のような容貌は仮面の如く表情を変えず、血の気のない薄い唇は推量し難い微笑で緩やかな曲線を描いていた。

 激怒のあまり犬のように歯をむいて唸り、不平を鳴らしつつ、ダヴィッドのデザインによる、金刺繍をあしらった灰薔薇色の執政服に包まれたボナパルトの活動的な若い痩身は、テュイルリー宮の高雅な室内をせわしなく行ったり来たりしていた。

「私はな、あの街路で犬のように殺される処だったんだぞ、君の無能な警察が幻を追いかけている間にな」というのが執拗に繰り返された苦情の要旨だった。

 それはサン=ニケーズ通りに設置された時限爆弾マッキーナ・インフェルナーレによって、彼を地獄の底まで吹き飛ばし殺害せんとした企ての、一週間後の事であった【註1】。しかし、天命により守られていた第一執政の馬車は、危険な地点を数分早く通り越していた。そして爆発が街路を粉砕した頃には、犠牲者となるべく意図された人物は、ハイドンの『天地創造』パリ初演に臨席する為にオペラ座に向かっていたのである。

 その爆弾が炸裂したのは、肉体的な危険を及ぼすような至近距離ではなかったが、しかし第一執政の肉体の中にある精神が激しく振動するには充分な近さであり、彼の警察大臣フーシェはコルシカ人の癇癪が炸裂した際の灼熱を至近距離で体感する仕儀となった。しかしながら気質も気性も魚の如きフーシェは、その熱風によって暖められる事はなかった。

「サン=レジャン【註2】とカルボン【註3】は幻ではありません」冷たく明晰な声が答えた。「単に容疑をかけているだけでなく、彼らからは王党派の陰謀と断言するに足るだけの証言を既に絞り出しております」

 ボナパルトはイタリア語で怒鳴った。「コリオーネ!【註4】君はいつでも自分に都合の良いものを捜し出せる人間だからな。幻ではないだと?そうだろうとも。スケープゴートだからな。私を誤魔化す為に生贄にした、身代わりの山羊だ。だが騙されんぞ」輝くハシバミ色の目には抑圧された蔑みが燻っていた。「心底では信じていないくせに、君の忌々しいジャコバンの友人たちの仕業ではないなどと言って、私を丸め込もうとするのはやめたまえ、フーシェ。奴らは革命時代に逆戻りするのが望みなのだ。それは君も先刻承知だろうが」

 フーシェは狭い肩をすくめた。「彼らの望みは叶うかもしれませんね、第一執政閣下、もしも閣下が、あくまで現実から目を背けるおつもりならば、貴方は本物の危険にさらされる事になるでしょうから。ジャコバン過激派が現状において本当に活発ならば、そのような試みもあるかもしれません。しかし今の彼らは貧弱な取るに足らぬ集団であり、大規模な破壊活動を行なう力などありません。閣下御自身の為に具申をお容れください。我々が目を光らせるべきは君主制主義者であり、特に貴方の友人、ドラビーニュは要注意です。ドラビーニュ宅を捜索し、手紙類を徹底的に調べるべきです。興味深いものが出てくるはずです」

 ボナパルトは一片の好意もない視線を彼に向けた。「君には忘れ難いようだがな、恐怖政治テルールの日々は終わって、あの頃の流儀はもう通用しないんだ。法律は尊重されねばならない。大義名分を保障する証拠は何処にある?」

 フーシェはにっこりと笑顔を見せた。「証拠ならば、家宅捜索を行なえば出てきますよ」

 仮にこれが冗談であったとしても、ボナパルトは面白がってはいなかった。「無駄だ。ドラビーニュの私に対する資金援助について知らないのか、それとも忘れているのか?それでも彼が君主制主義の陰謀家に見えるのか?」

「確かに、その件に関しては承知しておりますし、記憶力についてはいささかの自信がございますので、第一執政閣下、貴方が御存じない情報についても幾つか思い出す事が可能です。例えば閣下はお気づきになってはいないようですが、彼が資金提供を行なったのは、それによって政治に影響力を及ぼす権限を得るのを期待しての事です。食料卸売商の店員から軍の御用商人、其処から百万長者に成り上がった金融業者の野心を、貴方は失望させ続けているのです。現政権は、巨大な利益をもたらす目覚ましい高位にのし上がるという自分の夢をかなえる機会を提供してはくれない、そう悟った彼は、見込みのありそうな勢力に関心を向けています」

 ボナパルトは彼を睨んだ。「ふん!憶測だ。証拠に基づかない、根拠なき憶測だ」

「確かに物証はありません。しかし根拠はあります。そして論理的には――そう、論理的な矛盾はありません。人間は自己の利益に沿わぬ善を行なわない、という前提に基づいた論理においては。危機回避の思慮が家宅捜索の必要性を強く求めております」

「家宅捜索は許さん」ボナパルトは有無を言わさぬ調子で命じた。「いいか?家宅捜索は許さん」

 再度、フーシェは肩をすくめた。「第一執政閣下、貴方の目は彼に負うている五〇万で曇らされているのです」

 これはボナパルトを苛立たせただけだった。「ああ言えばこう言う。だが口先では誤魔化されんぞ。君が何を言おうと、あの資金供与が私に対する推服の証拠という認識は変わらん。君の友人たちの悪事を隠蔽する為に、私の友人を悩ませるようなまねを許すと思うか?君が単なる推測よりも幾分ましな証拠を持って来るまでは、ドラビーニュを悩ませるような行動は許可できんな」退出を命ずる際、彼はそっけなく付け加えた。「これ以上、言うべき事は何もない」

 フーシェは溜息を吐いた。「ビアン!(結構!)しかし私の両手を縛る以上は、もう一つの爆弾が閣下の足元で炸裂した時に私を非難しないでいただきたい」

「君がジャコバンの友人たちにしっかり目を光らせていれば、そのような事は起こらんだろうよ。あの腐肉どもの間を漁って調査をしたまえ。以上だ」

 大臣は踵を揃えてお辞儀をした。「畏まりました、第一執政閣下!」

 だがフーシェにとって、恭敬と服従は外面だけのものに過ぎなかった。彼の魂は如何なる者が相手であれ、畏怖や尊崇によって拘束される事はなく、そして一介の使用人という立場に甘んじているように見える間も、その真の主人は常に己自身であり、己以外の何者の判断にも左右される事はなかった。

 ヴォルテール河岸ケ・ヴォルテールにある警察省に戻ると、フーシェは彼の全エージェントの中で恐らく最も有能なデマレを呼んだ。

「ドラビーニュはどうだ?」彼は尋ねた。「新しい情報は?」

「ほんのわずかです、市民大臣」デマレは浅黒くがっしりとした体躯にローマ皇帝のような頭部が乗った三十代の男だった。「掴んだのはこれだけです。ドラビーニュがラインの向こう、エッテンハイムと思しき場所にいる何者かと文通している事。奴の密使が数名、こちらとストラスブールの間を定期的に行き来している事」

 フーシェは深く座ると、細い指先同士を合わせた。思いに沈んでいるかのように、垂れた目蓋が眼球を被っていた。「それでほんのわずかと言うのかね?やれやれ、デマレ君。それでは理知的アンテリジャンとは言い難いね、それとも君は、アンギャン公【註5】がエッテンハイムに潜んでいるのを知らないのかな?」

 デマレは驚いたように身じろぎした。「何を思いつかれたんです、市民大臣?」

「その密使の一人が辻強盗にでも遭ってくれると好都合だね。そうすれば、あの金融業者の文通相手と目的を知る事ができる」

「それは流石に不自然でしょう。私が奴の家に行って手紙類を調べる方が、単純かつ有益なのでは?」

「確かにね。しかし、あの凶漢は第一執政の保護に安んじている。ボナパルトは我々が物証なしで行動するのを許さないだろう。彼は梃子でも動かせないよ」

 デマレは微笑した。「押し込み強盗も辻強盗も、難易度に大差はないでしょう」

 この狡猾なほのめかしによって、鳥の瞬膜のようなフーシェの目蓋はゆっくりと上がり、青白い両目が現れた。「名案だよ、デマレ君。それでいこう。だが慎重に。第一執政の誤った先入観を忘れてはいけないよ」彼は冷笑しているようだった。「あれは尊重して差し上げないとね」



訳註

【註1】:革命暦第Ⅸ年雪月ニヴォース3日(1800年12月24日)に起きたナポレオン暗殺未遂事件。サン=ニケーズ街に火薬と発火装置を詰めた樽を載せた馬車を置き爆殺を試みた。実際の計画者は王党派の貴族たちであったが、ナポレオンは共和主義過激派の犯行と断定し、多数のジャコバン残党を逮捕させた。フーシェは犯行に使われた馬車と馬の特徴から実行犯を割り出し、サン=レジャン、リモラン、カルボンらのふくろう党員を逮捕。拷問により首謀者たちの名前が判明したが、ナポレオンは誤認逮捕したジャコバン活動家への恩赦を拒んだ。

【註2】:ピエール・ロバノー・ド・サン=レジャン(1766年9月30日 - 1801年4月20日)
ルイ十八世の支持者でありブルターニュ地方で農民反乱を扇動していた。サン=ニケーズ事件の実行犯の一人。

【註3】:フランソワ=ジョゼフ・カルボン(1756年 - 1801年4月20日)
サン=ニケーズ事件の実行犯の一人。拷問の末に共犯者を自白、処刑された。

【註4】:イタリア語の悪態。直訳は「睾丸」。

【註5】:ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ(1772年8月2日-1804年3月21日)
ブルボン王家に連なるブルボン=コンデ家の跡取り息子。アンギャン公爵。革命勃発後は亡命貴族として祖父コンデ公ルイ・ジョゼフ、父ブルボン公ルイ・アンリと共にコンデ軍として戦争に参加。後に婚家との縁で中立国であるバーデン選帝侯国のエッテンハイムに隠れ住んでいた。サン=ニケーズ事件から三年後に再び試みられたカドゥーダルらによるナポレオン暗殺未遂事件の首謀者と誤認されて、越境侵入したフランス軍により拉致され、軍事裁判にかけられた末に、釈明の機会も与えられず銃殺された。これにより名門ブルボン=コンデ家は断絶。

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