見出し画像

短編小説 ピエロ #4

#3

 4

 二人の両親の墓は商店街から少し離れた、樫の木のそばにあった。
 夏場は大きな入道雲が覆い隠すその集合墓地は広く、一直線に並ぶ墓石に花や線香が供えられている。当然冬に鳴く蝉はおらず、冴え渡った冬晴れのソーダ色の空のもと、彼は墓石の前に立っていた。バニラアイスを溶かしたような雲が風任せに流れている。

 菊とユリの花を供え、両手を合わせる。
 彼は幽霊を信じるタチではなかった。無宗教で、その服屋の白いマネキンみたいな容姿を除けばステレオタイプの日本人だった。痩せた手指は芯まで冷たく、作業でできた傷が風に吹き晒されていた。
 尤も、朝のニュースは人間がヘビや魚になる現象について話していたが。受信料の取りたてさえ居留守を使う彼がそんなこと知る由もなく、今日も世界は義務教育のように、おおむね教科書と法律に従って回っていた。
 小鳥が騒がしくさえずっていた。隈のできた瞼を開ける。高校時代から五センチほど伸びた身長は、立ち並ぶ墓石と並ぶか、少し抜けるくらいだ。
 線香の、灰が焦げる香りが鼻につく。

 葬儀の翌日。彼と妹は共に墓の前に立っていた。
 相変わらず空は濃い青を塗りたくったようで、全てのものの輪郭がはっきりとしていた。大きな葉をつけたアジサイの花が帰り道に固まって咲いていた。
 彼は葬儀の時になって初めて泣いた。
 その頃から、理由もなく涙が出る時がある。
 当時はアレルギーだと誤魔化していたものの、今となればそれはれっきとした「症状」だった。ジージーと蝉の鳴くような耳鳴りがして、微かに眉間にしわを寄せる。履きつぶした青いスニーカーはくすんで汚れて労基も真っ青なほど酷使されている。蜘蛛が隣の墓石の裏を這っていた。白く垂れた糸に、羽虫がバラバラになって吊り下がっていた。
 どこまでも広がる青く晴れた空。
 黄色いヒマワリに、焼け付く強い日差しに、鼓膜に貼りつく蝉の声。めまいがする。肌を撫でる風は容赦ない冷たさで、冷凍ミカンみたいにかじかんだ耳が痛かった。なのに、すごく、暑い。熱中症になったみたいに心拍数が上昇する。
「あの、お兄さん、大丈夫ですか?」
「え」
 彼が顔を上げると、そこには黒いワンピースを着た女性が立っていた。心配そうにこちらを見ている彼女は、上品な白い玉のネックレスをつけ、花束を抱えている。
 立ち尽くしている目の前の青年に、女性は不安げな顔をした。
「こんなに寒いのに汗かいてるじゃないですか、それに、顔色も……」
「え、あ……」
 瞬きをする。口角をあげる。
「だっ、大丈夫です。少し立ち眩みがして。すみません」
 彼は笑顔で言ってその場を立ち去った。直前、さっきまで彼が手を合わせていた墓石に女性が目を向けるのを見た。黒く筆文字で彫り込まれた家の名前が光る。
 あ。
 女性の視線がこちらを向いた気がした。さっきまで話していたのだからこちらを向くことだってあるだろう。あとから人が来て、何やら話している声がぼそぼそと聞こえてくる。彼は走り出していた。傍から見れば急用を思い出したようにしか見えなかっただろう。
 それから併設されたトイレに駆け込み、気が付いたら便座の奥を見つめていた。
 プラスチックバケツに突っ込まれた雑巾が異臭を放っている。
(また、やらかした……)
 ため息をつき、頭を抱える。

 ♦

 三箇日も七日も過ぎた町はちらほらと動きだしていた。
 一息ついた帰り道、久々に近づいたスクールゾーンの緑の道では学ランやセーラー服を着た子供たちがきゃっきゃと会話をしていた。あのボロかったコンビニは消えて代わりに新しい店舗が建っていて、近頃缶コーヒーも物価高騰で数十年ぶりの値上げがなされるらしい。曰く、これから更にあがるという話だ。自販機の前で十円玉との別れを惜しみつつ、彼は好きでもない苦いカフェインとのお付き合いをだらだらと継続した。自販機の表記通り"ホット"である……なんてくだらないダジャレを言ったって、財布の中身は着実に減った。

「あら。なんだか久しぶりね」
 墓参りの帰り、彼は商店街の入り口で隣人のひとりに声をかけられた。
 彼女は肉屋のところの奥さんで、今日も箒で道路を掃いていた。
「今日はお休み?」
「はい。…………まぁ」
「年初めくらいゆっくり休むのよ、働き詰めでしょう」
「まぁ」
「生活が大変なのはわかるけど、そんなんじゃ倒れちゃうわよ。そうだ、うちで揚げたコロッケ、要る?」
「あ、いえ……」
「いいのよ、遠慮しないで。お年玉みたいなものよ」
「…………いえ、ちゃんとお金払って買います」
「あら、そう? なら、まけとくからね」
「……ありがとうございます」
「そんなにかしこまらないで。近所のよしみじゃない」
 エプロンを着た彼女は明るい声でそう言った。彼はにこ、と愛想のいい笑みを浮かべると自宅の方へと歩いて行った。傍で見ていた同年代の女性が口を開く。
「かわいそうに、苦労してるのね」
「あの子昔は元気だったんだけどねぇ。すっかり大人になっちゃって」
 チークを塗った頬に手を当て、後姿を眺める。
 空は明るく、遠くの方にデパートのパステルカラーの看板が見えて、周囲をまばらに小高いビルが囲っていた。近々、この辺にも新しいマンションが建つらしい。
 店の前の電柱のふもとには誰ともなく植えられた白い植木鉢の草花が並んでいて、降ろされたシャッターにはまだ『休業中』の紙が貼られたままになっている。
 彼がシャッター横のポストを見ると、ガス局からの手紙と共にはがきが何枚か届いているようだった。見ればそれは年賀状で、成人した同い年の友人たちの姿がそこにはあった。
 念願だった大学に去年合格したらしい。桜の前でスーツを着てピースしている。
 一方、別の友人は就職したとのことだった。昔は部活に明け暮れていた彼も、今では灰色の背広とネクタイがよく似合っている。謹賀新年、と上に印字されていた。
 デジタルプリントのインクがぺかぺかと白く照らされている。はがきを束ね、正面玄関から家に戻った。廊下は薄暗く、和室にできたひだまりの上を埃が舞っていた。
 彼は居間の壁際に腰を下ろした。外は今日も明るかった。
 目から涙がこぼれて、よれた白いシャツを濡らす。
 街路樹の間をこぼれる空の光が苛烈に目に刺さってひたすらに眩しかった。全てのものが眩しくて仕方がない。例え電柱の陰に逃げても目を覆っても、きっと逃げられない。なのに延々と寄る辺のない真っ暗闇を走っているような気分だった。
 外はこんなに明るいのに、気分は常に沈んでいる。

 過去にとらわれるべきじゃない!
 ――そんなことわかってるのに。
 例え治ったってその先の人生はきっと苦しいものだった。立ち直るのにだって努力と時間と金銭が必要で。どうして、まともにできないんだろう。
 まるめたティッシュをくず籠に向かってひょいと投げた。宙で弧を描きすとん、と子気味良い音を立てて中に命中する。
 そういえばものを投げるのだけは得意だったな。
 あの日血濡れの継ぎ紐を捨てた電灯の紐が、中途半端に高い位置で揺れている。
 妹が高校受験に受かった日、埃をかぶった店先からクラッカーを引っ張り出してきて、百円ちょっとの安いケーキで二人で祝ったのをふと思い出した。
 突然スマホが鳴った。バイト先からだった。画面の時計を見た彼は片手で雑に頬を拭うと、鞄を掴んで家を出て行った。潰れたスニーカーのかかとを靴ベラで直し、玄関の鍵をガチャリと閉める。

 一月の下旬、いよいよ妹の大学受験当日を迎えた。
 ――と言っても、彼は間違いなく受かるだろうと思っていた。なにせ彼女は所謂天才で、だから結果については特に心配することはないだろう。
 ひとつあるとすれば彼女の志望校は隣県にあり、今の家から通うのは少し難しかった。初めこそ進学を渋っていた彼女は兄の後押しや学校からの特別推薦もあり、長くすこし厳しかった二人暮らしも三ヶ月後にあっけなく終わることとなった。
 当日の空は白く明るく、まだ町はどこか正月ムードが残っている。道行く人々は皆厚手のコートやマフラーを着込んでいて、白い梅の木が木柵に沿って雪の様に花をつけていた。
 空気は澄み渡り、弁当を手渡した手が芯まで冷えている。
「行ってらっしゃい。気を付けてな」
 彼はそう言って、赤くなった手を軽く振った。
「うん。行ってきます」
 見送られた彼女はそう言って手を振り返した。女子高生生活も終わりが近づく彼女は、梅の花の様にほのかな赤みが差した白いうなじに、艶めいた黒い髪がなだらかにかかっている。
 手を下ろす。彼は笑みを浮かべたまま、緩やかに目を細めた。母譲りの白く滑らかな肌やあどけない顔立ちが手を振り合う兄妹二人を年齢よりも若く見せていた。
 周囲の厚着を見やりながら、彼女がくれたマフラーと薄っぺらいコートを手繰ってくしゃみをひとつし、彼はそそくさと家に戻ると、ほとんど間髪入れずに外へ繰り出していった。
 向かいのベランダで洗濯物がたなびいている。
 勿論その日も夜になれば彼女は帰宅し、二人は食卓を囲って夕飯を食べた。話題はもっぱら大学のことや、気温やご飯のことだった。

 これが大体、彼が緊急搬送された一週間前の話である。

 ♦

 ――自分がどうかしてるなんてこと、自分が一番よくわかっているんだ。
 異常だと切り捨てればいい。目を合わせないようにして、子供の顔を覆えばいいんだ。なのに、どうして、またカチリと音を立てて記憶が再生される。摩耗しきった精神はもう動かないのに、細胞は拷問の様にあらゆる苦痛な感覚を拾い続ける。今日も明日も明後日も。もう、せめて眠らせて。起こさないで。すごく、辛いから。
「そうやって頑張れるのに頑張ろうとしないで、甘えてばっか」
 彼が振り向けば、数メートル先に立っていたのは人間だった。背丈や顔立ちからして学生のようだが学校はやめてしまったのか、よれたシャツに上着を着て、少し顔色が悪く目に隈ができているが、それでもにこにこと笑うことをやめない青年。
 面白おかしなことを嘯き、まるでピエロだ。
「人に迷惑をかけることしかできない、ゴミ」
 映像と音声が噛み合っていないような笑顔で青年は片手を掲げ、友人に今日の別れを告げるかのように横に振った。
「死ね」

 ぱち、と目が覚める。
 脱水症状のような胃の不快感と仄暗い絶望が喉までこみ上げる。
 間に合わない。咄嗟に手繰り寄せたゴミ箱にしばらく顔を埋めるも、結局出てきたのは胃液だけだった。食費は無駄にならなかったが……不安感が残留する。
「はぁ……」
 手放したゴミ箱が床に当たる音と、時計の音がする。深夜の静寂の中で自動車の走る音が大きくなって小さくなっていった。空が藍色だった。空調がオブジェと化した家の中は肺が縮みっぱなしになるほど寒いのに、風呂あがりにそのまま倒れるように寝床に着いた彼は肌着にズボンの状態だった。分厚い羽毛布団を手繰り寄せた腕にはまた新しいアザができていて、もうそれがいつのなんなのかもよくわからなかったが、痛い。痛むことだけは確かだった。肌着が落ち込んだアバラの起伏が目立つようになってきた。
 横になると壁にぶつかったので、彼は仰向けになって天井を見つめた。部屋の中は真っ暗で、一階だから床板の十何センチ下には土があった。
 誰かから言われた言葉がぼんやりと浮んでは、製品検査みたいに頭の中で丁寧に精査されていく。

 ――迷惑ですよね、あのメンヘラ。皆無理して頑張ってんのに邪魔ばっかり。
 ――犯人に対して何とも思っていないんですか? 他の遺族の方は……
 ――あ、この店。確か数年前の殺人事件の……
 ――かわいそう。
 彼は窓を見た。カーテンのない窓がこっちを見ている。
 ……放置し続けて「症状」を拗らせていることもよくわかっていた。発症一ヶ月目で医者に怒られたのも覚えていた。だからこんなにずっと不安で暗い気持ちになっていることも、多分もう手遅れなことも。
 カウンセリングはすぐやめてしまった、薬は高いのに効かないからやめた、全て自己責任だ。自分が取った選択が招いた結果で自分にも他人にも迷惑をかけて、気を遣わせて、馬鹿みたいだけどどうしようもなかったんだ、本当に?
 諦めて前を向いて日を浴びて、強く生きるしかない、誰だってそうだ。誰だって怖くて辛くて嫌なことがあって、毎日大変で、それでも立ち直って生きるしかない。
 そういうものだ。
 そういうものだから。
「大丈夫……」
 ……フラッシュバックが起こるのが怖い。昨日か一昨日捨て忘れたティッシュがふわふわになって手元に転がっていた。掴んで、そのまま涙かゲロで汚れたゴミを持っていた。シーツにこないだ切った指の血がついていた。喉の奥が甘酸っぱい。喉が渇いた。ゴミ箱には薬の箱に、ひしゃげた缶に、食べきれなかったコンビニ弁当のケース……居間の天井には大きな梁が通っていたが、元々両親の部屋だったここは電灯が薄白くぼんやりと暗闇に浮かんでいた。
 一日でも休んだらネジが外れたように生活が回らなくなるような気がしてならない。幸い、前の穴を埋められるバイトにありつけたから今回は良かったが……次は。
 変な夢ばかり見る。
 白い部屋に両親がいて、近づいたらぐちゃぐちゃになって死んだり。
 逆に真っ暗な空間で知らない誰かに自分の罪を問われ続けたり。
 妹が死んだり。
 早く寝たいのに、寝たら悪夢を見るのに、朝日が昇るのも怖い。

 そういえば洗濯洗剤、残りどのくらいあったっけ。
 寒い。痩せこけた白い体を丸める。

 ♦

「ただいまー……って言っても、誰もいないか……」
 居間のふすまを開けた彼は三歩歩いたところでふっとその血色の悪い瞼を落とした。体が傾きつま先が畳の目を滑る。写真が飾られた桐ダンスに影が落ちる。
 ゴン、と鈍い音を立てて角に頭を打ち付けた彼は、そのまま床に仰向けになって倒れた。
 どくどくと頭から血が畳の表面に広がる。外はまだ明るくて、帰宅する子供たちの声が聞こえてきて、投げ出されたスマホが振動していた。ふすまから差し込む穏やかな日差しが過去の血痕と新しい鮮血を一緒くたに照らす。
 気持ち悪くてあたたかなまどろみが思考を遮って、彼はぼうぜんと天井を見た。
 ――あれ、なにかんがえてたんだっけ。
 なにか大事なことをわすれているような。
 頭の奥がぞっと冷めていくような感覚に、やがて彼はそっと、ひだまりと暗赤色の中で安心して眠るように目を閉じた。

(#5に続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?