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短編小説 ピエロ #2

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 2

 青空に煙が昇っていたので、やっぱりまだ昼だった。

 あれから一月は泣いたり悲しんでる暇もないほどに忙しかった。事情聴取に役所手続き、葬儀や墓の準備、それから店の事。それらが済むと彼とその妹は今度はマスコミや野次馬の存在に悩まされることとなった。
 ――苗字そのままの店名にツッコみたくなったのは、生まれて初めてだった。
 当たり前のことだが、プライバシーがなさすぎた。遠目に見ても目に付く商売としては優秀な看板は「ここが事件現場です」と大声で叫んでいるようなものだった。
 ゴシック体で堂々と書かれた店の看板を黒い両目が少し睨み、肩を落とす。死人に口なしというが、あの世からすればこちらも口なしだった……尤も、伝えられたところで死者、ましてや親に文句を言うつもりは彼にはさらさらなかったが。
 丁寧な字で『休業中』と書かれた紙がシャッターの上で風に吹かれている。
 フラッシュをたかれ、振り向くとカメラを構えた男がこちらを見ていた。きゅっと目を細めた彼は裏戸から家に逃げ込んだ。八月の街は猫もへばるほど暑く、キッチンの蛇口からこぼれそうな水がダイニングの照明を反射して光った。暑さは部屋まで這いこんでくる。

『警察は"連続殺人"として捜査を進めており――犯人は現在逃亡中。殺害されたのは個人商店を経営する夫婦二人で、彼らには二人の子供がおり、第一発見者は』

 サーチエンジンから目を逸らし、しわのできた眉間を押さえる。
 彼はため息をついた。
 大きな目の下には隈ができ、体質的な細さ白さはますます目を引くようになり、その場しのぎでワックスを塗りつけた髪は若干乱れていた。おまけにいつ作ったかもわからない青アザが、まだういういしいハリのある肘にできている。
 伸びた襟足を後ろに追いやりながら、重たげに瞼をあげた。
 曰く一連の殺人はどれも異常で残酷なものだったが、ここまでひどいものは初めてだったらしい。世間はネットを中心にこのセンセーショナルな連続猟奇殺人事件に注目していたものだから、どこから話が流出したのか、見知らぬ一家の両親を狙った「あの」ずば抜けて異常だった今回の件は随分話題になったのだ。特に、一部のマニアの間で。
 人の噂も七十五日というのは、現代じゃ通用しない。
 店の名前で検索すればニュースがトップにあがるようになり、インターネット上にはいつ撮られたかもわからない盗撮写真が本名と一緒に晒されていた。
 フードを被った兄がフラッシュをたかれながら、妹を庇い家に入る写真。
 パソコンを閉じる。
 あまりにもみくちゃすぎて"いつ"も何もないと、彼はその無意味な回想をとりやめた。店だということが個人情報流出に一躍買ったのだろう。だが対処するにも金も時間も余裕もない。当然ながら通帳の預金残高は右肩下がりで、ダイニングのアナログ時計は微かな音で役人みたいに時を刻み、疲れた頭に曖昧になった警察署での会話がゆるくフラッシュバックする。去り際の話すらよく覚えていないから、大事なことを聞き落としたかもしれない。なんだかずっと具合が悪かった。
 そもそもなぜ、書類の書き方を調べようしたパソコンで、ニュースを見ていたのか。
 ――どこまで、話が広まっているのだろうか。
「どうしよう」
 いったいどこまで知られているかわからない。何を見られていて、誰がどう思っているのか。神経が鋭敏になるにつれ脳裏で瞬くものや気道にこみあげる重い気持ちを追いやるように、彼は整頓された資料や用紙に黒のボールペンを握って向き合った。修正液をどかし、ダイニングテーブルに置かれたちぎりかけの菓子パンを口に突っ込む。
 顔を上げればキッチンがあり、母はいつもそこで食卓に背を向けて料理をしていた。四脚の椅子が先月と変わらずダイニングテーブルを囲んでいる。食器洗剤や洗われた魚のパックが水周りに並んでいる。かえるのタイマーが大口を開いている。彼は父親の方が印象に残っていた。両方の親が常に家にいた影響かもしれない。……だからこそ、最後に見たのは内臓と、粗暴な切断面だったわけだが。
 あの日。
 テープに飛び込もうとする妹を押さえつけたのを思い出す。親の最期を見れないのは、きっと、辛かっただろう。
 警察が多少強引に入れたカウンセリングの予定すら煩わしく思えてくる。家の前に居た警官は「引き続きサポートを」と言ってほんのちょっと前にいなくなり、親戚はおろか祖父母もいなかった小さな葬儀も終わり、途方もなく感じた手続きの山もひとまず底が見えてきたところだった。彼の素晴らしく大人げのある頭は絶えず不安を訴えたし、ただずっと頭が痛かった。
 作業を邪魔するように、涙が書類を濡らした。彼は迷惑そうに眉を顰め雑に頬をぬぐった。

 時計の針が秒を刻む。

 ふと、隣の居間からすすり泣く声が聞こえてきた。彼は書類から顔を上げた。
 椅子を引き、立ち上がって音のする方へ向かう。どこもかしこも暗い家の中の、ますます暗い居間の畳の隅で、唯一となった家族が小柄な体を縮こめて泣いていた。黒くつやのあるポニーテールの髪先を濡らし、か細い泣き声の間で父と母を呼んでいる。
 涙が畳を濡らす。
 彼はすこし立ち尽くして、二度、三度瞬きをして、静かに近づいて彼女の正面に座った。
「大丈夫、大丈夫……」
 落ち着いた抑揚の少ない声でゆっくりと繰り返す。目の前の少女のすすり泣く声はやまない。視線を上げてみれば、タンスに飾られた家族写真と目が合う。父と母と、幼い頃の自分たち兄妹。更に横に焦点を滑らせれば開け放たれたふすまの隙間に血がこびりついている。彼は血痕が視界に入った瞬間さっと目を逸らした。冷や汗が首筋をなぞる。風が思い出のアルバムの一ページ目をふわりと撫でるようにあおった。
「……」
「っ……どうして、お母さんっ……お父さ、ん」
 涙にぬれた顔を覆う妹の背を、そっとさする。
 ……親を求めている少女に対して、兄ができることなんてなかった。妹が求めているのは父と母だ。けど、それでも、何かはできるはずだ。
 妹は紺色のスキニーズボンを履いていて、兄は白いティーシャツを着ていた。こうも引きこもる生活が続いていて、外に出ればあれだ。暗い気持ちになるのも当然だろう。彼だってまだ遺影を見る度に泣きそうになっていた。八月のカレンダーには予定がびっしりと書き込まれている。外は、快晴続きだった。
 手に伝わる震えはやまない。
 妹の母親譲りのよく似た端麗な――どちらかというと兄の方が完成されていたが、可憐な顔立ちに隈ができていて、日の当たらない部屋が俯いた影を濃くした。事件直後に塗装しなおしたばかりの壁は新品の部分と古い部分で色が分かれているのが遠目でもわかる。
 あ。
 と、彼は不意に小さく声をあげ「ちょっとトイレ」と言って小走りにその場を離れた。が、立ち去る際に思いっきりタンスにぶつかった。上に置かれた写真が微かに揺れ、アザのできた肘をものともせず彼の足音が廊下に遠のいていく。唐突に兄に取り残された少女は音に肩を跳ねさせ、ぼんやりと顔を上げた。
 だが数分と経たぬうちに戻った彼はこちらを見ている妹に気づくと、口元をぬぐう手を下ろし、真一文字だった口角を緩めた。
 妹が心配そうに僅かに眉を下げ、しゃがみ込んだ兄を見上げる。
「具合、悪いの?」
 うすら赤くなった黒い瞳が兄を見た。
「……ちょっと胃もたれ、貰ったコロッケが重くて。そうだ、何か食べる?」
 ごめんなさい、向かいの肉屋のおじさん。彼は内心懺悔して妹を見た。
「じゃあ、そのコロッケ……?」
「あー……実は、コロッケは初めから存在しなかったんだ。妙だよな」
「何言ってるのお兄ちゃん……」
 ふふ、と口元を少しほころばせた妹に、畳の目を見ていた彼はぱちりと少しだけ目を見開いた。笑う彼女は幼いながらもやはり愛らしく、掴めば折れそうなほど細い腕で膝を抱えている。涙の痕がついた赤い眼鏡は、いつだったか母と一緒に選んでいたものだったのを、彼は記憶していた。
 ポニーテールの根元で赤いリボンが揺れていた。

 ♦

 眼前に突き出された銀色のマイクが鼻に当たりそうになる。
(カメラの激しいシャッター音)――さん、今のお気持ちは?」
 カシャカシャと眩しいフラッシュに目を細め、思わず顔を手で覆う。しかしそうすれば余計に、覗き込むように光は入り込んでくる。
「妹さんもいて、これからどうなさるおつもりですか?」
「犯人に対して何かコメントはありますか?」
 あぁ、もう何度も聞いたセリフ。
「っ……やめてください」
 思い出させないでほしい。後ずさり、上着のフードに手をかける。ギラギラと光る鋭い目がこちらをじっと見ている。
「その頭の傷はどうしたのですか?」

 床から拾い上げたナイフを、その人の形をした化け物に振り上げた。気づけば目の前には死屍累々と血だまりができていた。不自然なほど真っ白な床に向かって彼は吐いたが、ほとんど胃液だった。

(どうして俺ばかり、こんな目に)

「あっ」
 飛び起きると同時に悲鳴を手で押し殺す。
「……はぁ、っはぁ……」
 時計を見ればまだ深夜の一時で、部屋はほぼ暗闇だった。不自然にあがった息を整える。反対側のベッドを見れば、もうひとりの家族は華奢な身体を丸めて眠っているようだった。降ろした長い黒髪が布団に垂れ、タオルケットが床に落ちている。彼はふらふらと立ち上がり、タオルケットを彼女にかけなおした。
 寝る部屋を変えた方がいいかもしれない。
 不意に、彼は部屋を飛び出すと一階のトイレに駆け込み、蓋を開けた。音を立てて嘔吐する。めまいがして、すえた匂いのする便器にしがみついた。
 一面の赤、むせかえるような血とふかした臓物の臭い、冷えた白い手足の肉塊。人は切り分けられると皮膚が異様に白く見えて、それが赤黒い肉にひっ絡んでいる。頭がガンガンと過剰なまでに警笛を鳴らして、恐怖に縛り付けられる。夕飯にやっと食べたパンはとっくに便器の中だった。白い錠剤が浮かんでいる。処方箋に書かれていた代金の想像以上の高さや、たった三十錠しか渡されなかったことを思いだす。それが少なくとも自分以外の――死を考えるほど追い込まれた人間への対策であることを、彼はなんとなく理解した。ものの察しと理解が早い青年だった。
 病院に行ったのは不調を感じてから確か一ヶ月ほど後のこと、重い腰をあげて行ったたった一回の受診で何かあったかと言えば
 ――所謂トラウマですね。それから……
 繰り返すフラッシュバックと慢性的な不安感に、具体的な病名がついただけで、彼は水を流してよろよろと腰をあげた。

 口をゆすいで廊下に出ると、月光は藍色だった。
 真っ暗な廊下はきしむこともなく冷徹なほどに固い木の感触がして、家の中はどこまでも暗い。縁側の方から風鈴の澄んだ音色が聞こえてきた。葬儀で聞いたおりんよりも短く、繊細な音だ。生温い風が吹き抜ける。四人で暮らすにはこじんまりしたこの家も、兄妹二人で暮らすには余白が多かった。
 そういえば、事故物件だ。
 薬の説明書、届け出の書類、書きかけの進路調査票とほぼ百点の答案用紙……それから光熱費の封筒、家の中は紙だらけで、埃も被っている。
 ふとカレンダーを見れば、お盆はいつの間にか過ぎてしまっていた。
 手は汗を握るほど熱いのに晒した腕は鳥肌が立つほど寒くて、青い空がぼんやりと窓の形をしていた。新聞屋がどこかの家のポストを開ける音がする。否応なしに朝日は昇って、朝が来た。

 それから一か月後、犯人が捕まったらしい。
 犯罪史に残る連続殺人の幕おろしは新聞に載り、テレビでも報道されていた。
『彼には家族がおらず孤独で、持病から職を失い、作った借金が膨れ上がり、精神疾患を引き起こし――』
 判決は死刑だった。
 それから続けて放映される芸能人のスキャンダル、浜辺に打ち上げられた半魚人の死体、その鱗の虹色の輝き……

 ♦

 今日も元気に、蝉がうるさい。

 せわしない夏休みも終わり、されど残暑はしなびたヒマワリの首を立たせ、宿題に追われる子供たちを泣かせた。
 当然噂は学校でも広まっていた。恐らく、中学校の方でも同じ状況だろう。
 新学期初日は担任のフォローもあって何事もなく、終日当てられる視線とささやき声こそあったものの、それ以降もこれと言った問題は起こらなかった。

 晩夏と言っても相変わらず空は抜けるように濃い青で、外ではどこかのクラスが体育の授業をしていた。静かな教室に、国語教師の単調な声がお経のように馴染む。
「そこ。起きろ」
 コンコン、と机をチョークで叩かれて初めて、飛び起きるように該当の男子生徒は顔を上げた。
 さっきまでうつ伏せだった額と頬は押し付けられて赤くなっている。
「す、すみません……」
「忙しいのはわかるが、学生の本分は勉強だからな。聞かないと点取れないぞ」
「はい……」
 慌てて倒れた教科書を整えなおし、ペンを握る。だが次の瞬間には瞼が落ちかけていた。黒板の内容と教師の補足を写し取ったノートは途中から無意味な線が伸び、はっと顔を上げ、しゃんと背筋を伸ばす。
 休み時間を挟み、入れ替わり立ち代わり別の教師が前に立ち、別々の話をする。
 そうして時計の短針が右斜め下を指したころ、下校のチャイムが鳴った。生徒たちが一斉に沸き立ち、ガタガタと椅子を引く音がそこらじゅうでする。
 額のアトをこする彼の元に、男子生徒が近づいてきた。「あー」と第一声を濁す。
「その、ご愁傷様……です」
「あー……ありがとうございます?」
 ……それは、ちょっと違うか。ええと、うん。
 再び沈黙が訪れる。先に沈黙を破ったのは友人の方だった。
「大変、だったな」
「うん」
 白い肌、やつれた笑み、薄く定着した隈を見やって、立っていた生徒は息をつき、それからやや真剣な目で彼を見た。
「……あのさ。飯食ってる?」
「あー、うん。大丈夫」
 にこ……と彼は笑ってみせた。友人は困ったような顔をした。彼だけでない、再会した人々はみな一様に同じ顔をしていった。友人が言う。
「帰る?」
「あっ、ごめん、俺バイトあるから」
 そそくさと席を立つと彼は軽く愛想笑いをして、黒い学生鞄を取った。そっか、と友人が遠慮気味に返す。
 彼は男子生徒に別れを告げて教室を出ると、ほとんど走るように校舎を出た。バイトもあったが、その前に妹を帰宅させる必要があった。強い西日が真っ白に光らせるグラウンドを一直線に突っ切る。深まった緑が風に揺れる。制服の白いシャツも、体操服も、チョークで引かれた白線も、空を飛んでいくボールも、全てが後ろに流れていく。別棟のプールの壁が青かった。

 それから彼は毎日急いで家に帰り、マスコミや野次馬から妹を守って帰宅させた。
 中学校では他の生徒から色々言われたらしく、そのたびに彼はそっと見守り、時には慰めたり学校の電話に出て、食卓ではなるべく楽しい話を考えた。例えば冗談とか、彼のギャグセンスは極めてくだらなかったが、あいにく兄妹揃って笑いの沸点が低かった。おかげで家の中はそれ以上暗くなりすぎず、妹が泣く頻度は少しずつ減った。

「あれ」
 大半の生徒からすれば残暑の熱と一緒に彼はいつのまにか高校から消えていた。秋があっという間に終わり、そして深く冷え込む冬が訪れた。

 せめて妹には普通の、なんてことない幸せを。
 第一発見者が俺でよかったと、彼は心の底からそう思った。

(#3に続く)

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