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短編小説 ピエロ #3

#2

 3

 必ず、夕飯時には帰ること。
 それが、彼が心に決めたことのひとつだった。
 
「ただいまー」 
 裏戸から兄が笑顔で帰宅すると、ダイニングにいた妹は顔を上げた。
「おかえりなさい」
 背の伸びた彼女はすっかり新たな制服服が似合うようになり、真っ白なセーラー服が電灯に照らされている。服を畳む手を止め、彼女は控えめに可憐な笑みを浮かべた。
「遅くなってごめん。引き留められちゃってさ」
「いいよ、お疲れさま」
 荷物を置き、蛇口をひねる。流水がシンクとあかぎれのできた手を打った。

「ここに何の変哲もない箱があります」
「うん」
「本当に何の変哲もない。ただの箱。びっくりした?」
「うん、逆にびっくりしたよ」
 妹が見てみれば、兄の持つ箱からはチョコレートのような甘い香りがした。
「残業代代わりにお菓子貰ったんだ。俺もう食べたからあげるよ」
 そう言って彼は机に出した菓子の包装を一つ取り、妹に差し出した。
「ありがとう」
 キャンディー状に包まれた丸くて大きなチョコレート菓子のようだった。机には十二個出ていて、箱の大きさを見た彼女は、手元の包装をそっと剥がした。ピンクのギラギラしたアルミから取って口に入れる頃にはもう彼は別のことをしていて、まるいチョコレートはとろけるように優しく甘い味がした。
 いつだったか、彼は「クラッカーは人に向けちゃダメだけど、パイなら問題ないよね」と言ってレモンパイを机に置いた。「材料にこだわりました」と自信気にコメントを添える兄に「なら普通に食べようよ」と妹は待ったをかけた。曰く、それは隙間時間に見よう見まねで焼いたらしく、味の方は偶然か実力か本当においしかった。
 彼は相変わらずよくそういうでたらめな冗談を言った。
 机に並ぶみそ汁、白米、肉野菜炒め、肉の存在は珍しかった。大体は魚だったり代替え品だったり、その理由を彼女は知っていた。
「はい」
「ありがとう」
 目の粗い台布巾の横に食事が並ぶ。
 天井のランプが薄暗い食卓を真っすぐと照らす。
 いただきます、と声が重なった。
 両手を合わせて二人は箸に手を付けた。時計の針は八時を指していた。炊かれた米から甘い湯気が立ち、肉やキャベツに絡みついた甘辛いタレが琥珀の様に光っている。みそ汁も野菜炒めも具は質素だが、家庭料理としてのクオリティーは保たれている。
 彼は肉を避けてふかされた野菜を取った。目線を上げれば、妹が赤い制服のリボンを胸に食事を口にしている。少し安堵したように彼は表情を緩めて、米をすくった。
 前は学校から泣いて帰ってくるような日もあったが――最近では友達もできたようで、彼女は着実に自分の人生を歩んでいるようだった。なら彼としてはわざわざ言うことがあるはずもなく、ふと、壁にかかった時計を見る。
「あっ、忘れてた! そろそろ行かなきゃ」
 椅子から音を立てて立ち上がると、彼は慌てて食べかけの自分の皿を片づけ、ラップもまかずに冷蔵庫に押し込んだ。バタバタと引っ掛けたコートを取って身にまとい、傘と鞄を掴む。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
 にこにこと笑う兄の姿を見て、彼女は笑みを浮かべていた表情をほのかに俯け……ためらいがちに、口を開いた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん、どうしたんだ?」
 目元にできた隈を除けばなんの変哲もないコートを着た好青年だった。前の仕事のせいか秋色のモッズコートにはうっすらと砂埃がついていて、彼は大人びて一層美しく、作り物のように綺麗な笑顔を浮かべ、妹の次の言葉を優しく待っていた。
「……なんでもない」
「そっか。……あっごめん、もう行かなくちゃ」
「あ、うん、ごめん。行ってらっしゃい」
 返事が追い付かないほどの速さで、彼はほとんど嵐のように裏戸から去っていった。妹は上げたままの片手を下ろし、兄と同じ真っ黒な瞳で表面の凹凸した扉を見た。

「ご注文は以上でよろしいでしょうか。では少々お待ちください」
 夜のファミリーレストランは昼と変わらず少なくない客で賑わっている。
 笑顔ではきはきとそう告げると、若く背筋の伸びた黒髪のウェイターはメモを打ち込んでカウンターに向かった。窓は自社の電光看板を映している。それからお冷を取り、踵を返す。
「……あ」
 氷が床に散らばった。
 何か引き金があったわけじゃなかった、あえて言うなら予期不安が本当になっただけだった。おぼんを取り落とす。ウェイターは蹲った。呼吸があがり、みるみるうちに顔色が蒼ざめ、うわごとが口をついて出る。
 ちがう。今は回想なんかしている場合じゃない、早く立ち上がらないと、早く。
「ねぇ、あの人どうしたの?」「具合悪いのに働かせてるのかしら」
 涙が茶色のエプロンを濡らした。
「誰だよ、こんなの雇ったの」
「知らないよ。若いからってあの人が……おーい、江藤くん、立てる?」
 たちまち店員の声に囲まれる。数秒だったかもしれないし、数分経っていたかもしれない。

「あのさぁ、仕事は遊びじゃないんだよ」
 店の奥の廊下にて、店長に睨まれた彼は真っすぐと頭を下げ、黒髪が空調の温風を受けてなびいた。店長の声は苛立っていて、膝がガタガタと貧乏ゆすりをしている。当初彼は厨房や清掃を希望していたのだが――気づけばウェイターをやっていた。声がビンタのような衝撃を持って鼓膜を叩く。
「すみません」
「困るんだよ、君みたいな、その…………とにかく。今日でクビだから。もう来なくていいよ」
「え、あ……あの、他に私にできることがあれば何でも」
「ないから。帰った帰った。給料は今日分まで、口座確認しといて」
 休憩中の従業員たちの視線が刺さる。換気扇がカラカラと回っていた。ぱきっとしたシャツは清潔感のあるもので、茶色とオレンジの中間色をしたエプロンは滑らかな生地で作られていて、足元に折りこみがひとつついていた。

 店を出て、少し離れたところまでくれば夜の街は明るく、小高いビルが光っていた。クリスマスシーズンも近づき、きらきらしたイルミネーションやマンションの明かりが賑やかにてんてんと灯っている。
 彼がついたため息は白くなり、ふわりと肺を凍らすような夜風に掻き消えた。
 フリーターを脱却しようと思ったことがなかったわけではない。だが、ことごとく面接でダメだったのだ。早く次探さないと、と思いながら鞄を握って次のシフトへ向かう。今日は家に帰るのも難しそうだった。時間には十分すぎるほど余裕があったが……コートのファーがついてるのはフード部分だけで、真冬にしては薄っぺらすぎる生地に身震いした。代わりにとにかく足を動かした。動けばあったまるはずだった。
 雪が降るほど寒くたって雪は降らない。
 細くも骨太な指先に息を吐きかける。手袋があったらよかったけれど、引き出しから出てきたミトンはいつの間にか小さくなってしまっていた。代わりに鞄から出したマフラーを首に巻き、彼は表情をほころばせた。妹が勉強の合間に古い毛糸をほぐして編んだらしいそれは、温かく、微かにちくちくした。誕生日プレゼントにと貰ったのだが――そんなことより友達と遊んでればいいのに。

 信号が青に変わる。
 対向車線のドラッグストアが眩しかった。横断歩道を渡り、青のボーダーラインの光に右折して入っていくと、彼はポップのついた薬棚から睡眠薬のケースをとった。病院で貰う瓶のものと違い、四角い紙のケースには大きな文字で「寝つきが悪い、眠りが浅い」と決まり文句が書かれている。ちらと棚を見渡すも、当然抗不安薬なんかは置いていないようだった。あかぎれのできた指でお札を抜き、店を出る。
 テープの貼られた小箱と小銭をしまう。
 もし、次のバイトを見つけられなかったらどうしよう。そもそも今後いつまでこんな暮らしを続けていけるのだろうか? 貯金はあといくらあった? 頭の中で通帳をめくる。確かそれなりの金額はあったが、現在の残金は彼の頭の中にしっかり記憶されていた。光熱費やその他生活費を減算する。今はどうにかなったって、数年後、数十年後はどうなる? 街は明るく白っぽかった。暗闇の高層ビルの屋上で赤いランプが光っている。
 指先が震える。瞬きをして、つま先の削れたスニーカーを動かした。
 駅からどっと疲れた顔をしたスーツの人々が出てきて彼を横切っていく。電光掲示板によると人身事故で電車が遅れているらしい、彼が顔を上げると重くよどんだ光景と、耳につく革靴の足音がすぐそこまで迫っていた。青信号が点滅している。黄色い線の向こうに落っこちてしまった人のことを想像しかけて、咄嗟に頬をビンタして思考を止める。
 思ったより力が強く、白い頬に赤い手のアザが浮かんだ。
 白い目で見られている気がして、虫に刺された人のフリをした。
 信号が赤に変わる。
 街中の夜は冬の海のように冷たくて眩しい。散乱した街灯の明かりが続く道に車が絶えず走っていて、どこかのマンションの窓にまるい電灯の明かりとテレビの画面が映っていた。ビジネスホテルの名前やコンビニの過剰な光が人間の社会を作っている。
 頭を過った妹の笑顔は、そんな街明かりよりも彼にとっては遥かに眩しい光だった。そのおかげか家では比較的発作も落ち着いている。泣きそうになったってトイレまで行く余裕があった。ちゃんとしっかり振舞えているだろうか。
 よしっ、と今度は人目を考慮して小さく意気込み、歩き出す。

 カチ、カチ、と時計の秒針の音が暗い廊下に響いていた。針は真上を指している。
 コンコン、と子供部屋のドアをノックすれば返事が返ってきた。まだ起きていたらしい。お盆にのせたものをこぼさないよう、そっと気を付けながら骨ばった手首でどうにか扉を開ける。
「ただいま。ケーキ買ってきたんだけど、食べる?」
 彼がにこりとそう問いかけると、勉強中だった妹は顔を上げ、控えめな笑みを浮かべて「ありがとう」と言った。卓上ランプが一つ灯った部屋の中にホットミルクの湯気が昇る。勉強道具の横にショートケーキとマグカップを並べた彼は、お盆を拾った。
「これも食べる?」
 お盆を掲げる。
「食べないよ」
 妹がツッコミを入れる。兄は「じゃあ、頑張って」とお盆を手に部屋を後にした。電灯の傍に置かれた参考書には隣県の大学名が書かれている。その背表紙には白い折目がびっしりとついていた。
 真剣な表情で机に向かう妹を横目に見て、扉を静かに閉める。
 明かりが細くなり、閉じた。

 ♦

 きゅ、と蛇口をしめる音、それからコップを置く乾いた音。
 夜の家の中は相変わらず暗く、静まり返っていた。うっすらと開いたままの部屋に、洗面所の明かりが細く差し込んでいる。
 うめき声。殺しきれない悲鳴と、荒い息遣い。布の掠れる音。
 歯を磨きに降りた妹が声のする方を見れば、彼は今日もひどくうなされているのか、トラウマに引きずり込まれている最中のようだった。コートを着たままなので多分後者だろう。真っ暗な部屋の壁際でベッドに横たわり、背中を向け、まるで妹の存在に気づいていない。
 細い背中を丸めて震えている。
 ――彼女は二度ほど、食事中に発作を起こした兄を見たことがあった。椅子から崩れ落ち、箸を取り落とし、呼びかけにも応じず、茫然自失といったようすで泣き出して……完全にこちらが見えていなかった。気が付いたら彼は我に返っていて、まるで何事もなかったかのように振舞っているから、聞けずにいた。聞いた方がいいのだろうか。でも、それは彼の努力を無意味にすることにはならないだろうか。
 あまりにも不安定に見えた。
 そもそも彼女は何度か兄に「大丈夫?」と聞いていた。だがその度に、気づけば冗談で言いくるめられていて、彼女がそのことに気づくのはいつも彼が家を出た後だった。
 しばらく兄の様子を扉の隙間から見ていた。明かりに逆光の影ができる。
 だが数分とたたぬうちに彼の息遣いが落ち着いてくると、彼女は扉の前から逃げた。素早さ勝負では妹の方が上だった。暗闇の中でため息と、がさがさとシーツの擦れる音がする。彼はそれから台所で水を汲み、寝床に戻って薬を飲んで……
「げほっゲホッ……は……はぁ、あ……やらかした」
 水と取り違えた缶コーヒーにむせて、諦めたように布団をかぶり、眠ったようだった。
 自販機で見慣れた黒い缶とまるめたティッシュがゴミ箱の中に積みあがっている。

「茅?」

 ――が、名前を呼ばれて妹は肩を跳ねさせた。
「起きてるのか?」
 呼ばれた少女が振り向けば、夜の暗闇の中で兄が上半身を起こしてこちらを見ていた。黒い髪や瞳、その表情は闇に溶け込んでいてよく見えないのに対し、真っ白なシャツだけがうすぼんやりと発光して見える。
 妹は靴下のつま先で廊下の木目をなぞった。
「うん」
「眠れない?」
「ううん。歯磨きしたら寝るよ」
「そっか。ならよかった」
 そのまま彼はおやすみなさい、と言ってベッドに横になった。隈のできた目をつむって狸寝入りをする彼に、妹もまたおやすみなさい、とやわく微笑んで、立ち去った。
 だがその夜も一階からは、時々呻くような、助けを求めるような声が聞こえてきた。
 それから朝方に物音がして、立て付けの悪い扉の閉まる音がする。

(#4に続く)

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