短編小説 ピエロ #5(完)
#4
5
「いやー、うっかり」
包帯を頭に巻かれた彼は、後頭部に手を回し相変わらずの笑顔で言った。もー! といつになく感情的になっている妹にごめんごめんと返す。
結論から言うと、やっぱり彼は素晴らしく丈夫だった。
命の別状どころが後遺症もなく、数時間後には元気になった彼は、現在妹に叱られ、さてどうしたものかと考えていた。
医者曰く「過労ですね」とのことだった。
「うっかりじゃないよ! 本当に死んじゃうかと思ったんだから……」
よく見れば涙目になっている妹を見て、彼は咄嗟に手を下ろし、柔らかい笑みを浮かべた。流血沙汰の大怪我だったせいか包帯にはまだ血が滲んでいる。
「ごめん、本当に。次から気を付けるよ」
「そう言って……。……もう、ちゃんと気を付けてよ?」
「はーい」
仕事の話となると彼女が強く言えないことを、恐らく彼は知っていた。にこにこと爽やかイケメンスマイルを浮かべる兄に妹は浅くため息をつく。
彼は搬送先の病院で処置を受けると、夜には意識を取り戻した。
倒れるなんてこれが初めてだったから、妹としてもかなり動揺したのだろう。特に、話によれば彼はしばらく意識がはっきりせず、救急隊員や医師の問いかけに対し寝ぼけたようにでたらめな回答を返していたというから、よほど不安にさせたらしい。
申し訳ないことをしたな、と彼は思った。
数針縫った額の傷は、元の肌の白さも相まって残るとのことだった。
ジャケットを着た彼女はベッド際で襟を正した。カフェオレ色のジャケットはすらりと大人びた彼女によく似合っていて、パイプ椅子に腰を下ろした彼女はその背を気持ち程度丸めて息をついた。赤ぶちの眼鏡越しに兄を伺う。床に並ぶスニーカーは古く、あまり綺麗なものとは言えなかった。
病室は他が満室だったため特例の個室で……調べたところによると病院側の都合の場合、費用は相部屋と同じになるらしい。あってよかったスマートフォン、液晶は撃ち抜かれたように割れてしまったが……これは当分このままだろう。薄黄色のカーテンの向こうはすっかり真っ暗だった。
「じゃあ、明日また来るね。退院、明日だっけ」
「多分」
妹は椅子から立ち上がると、鞄を持って病室の扉を開けた。
「おやすみなさい。またあした」
去り際に振り向いた妹に、彼は軽く手を振った。
「おやすみ」
にこにこと笑顔を浮かべる。パタン、と扉が閉まった。
彼は扉から視線を外すと、口角を下げた。シーツを見つめる。
誰もいない病室は静かで、窓は真っ黒な鏡のように部屋の中を映していた。手の甲の青い静脈に繋がった、栄養剤だったか造血剤だったかの管が揺れる。シーツは一点の穢れもなく真っ白で、パイプで囲まれたベッドに彼は上半身を起こして座っていた。
病院着越しの身体は細く、膝や手首の骨格が随分と浮き立って見える。それでも線の太さが目立つ、華奢なのに男性的な体格が不思議と不安定さを感じさせなかった。服一枚めくればその暮らしぶりの不健全さは一目瞭然だったが。血色は悪く、目の下には濃い隈ができっぱなしだった。
気を付ける、と言ったのは嘘ではなかった。
まさか倒れるなんて微塵も思っていなかった彼は――いや、微塵もというのは嘘だが、それなりに驚いていた。バイトも今日明日は全て休むことになってしまって、だが正直、生活を改善しようにもどうにもできない。
彼の頭は入院費用のことを考えていた。
明日退院できたとして、二日分。それから治療費と検査代、薬代。保険が適用されたとしても数万は間違いなくかかるだろう。ギリギリの生活をしている身からすれば、結構な痛手だった。今月使える分はあとどのくらいだっただろうか。
退院したら、また働かなければならない。
当たり前の事実が重くのしかかる。
額の傷のせいか、こみ上げる不安のせいか、頭がズキズキと痛む。
苦しくて息がしづらかった。けれど頭は正常な判断ができていて、必要ならば作り笑いをすることができた。確かに彼は正気だった。頭に浮かぶ不安や悩みはどれも非論理的なものばかりで、それを振り払うにも体力を要した。窓の外は真っ暗だった。寂しい夜景が見える。その上に真っ白な蛍光灯の光が二本、はっきりと浮かんでいた。
廊下の方からカラカラカラ、と台車を運ぶ音がして、それから再び静かになる。
ふと上げた顔が窓ガラスに映った。肌は貧血でますます蒼白く、大袈裟なほど大胆にまかれたガーゼと包帯が額を覆っている。真っ黒な瞳と髪はくり抜いたように夜景に溶け込んでいた。頭はズキズキと痛んだ。悩み事がコバエのように頭を飛び交う。
ふっと、倒れた時のことが脳裏を過った。
もう寝よう。
彼は点滴を引っぱって病室の電気を消し、いつもよりずっと早く掛布団にもぐりこんだ。だがまだ痺れる体に反してなかなか寝付くことはできず、サイドラックの時計が一時を過ぎたころ、正確な時間もわからず訪れたまどろみに意識が途絶えた。
それから夢を見た。
赤黒く塗りたくられた惨殺現場。
臓物が散らかり、ぶつ切りの肉と化した人体が床に転がり、飛び出た目玉がこちらを見ている。それからゆだるような暑い室内と、むせかえるような血のにおい。
もう何度も見たあの日の光景。
「――はぁっ。……はぁ、はぁ」
飛び起きる。時計はまだ一時台を指していた。
息は荒く、うっすらと冷や汗が白い肌に滲む。部屋は真っ暗で、廊下から差し込む細い光がベッドを横切っていた。悪夢のせいで浮かんだ涙がシーツに落ち、あ、と黒い瞳が揺れ、夜のビルの明かりを映した。
僅かに見開いた瞳を横に向ければ、サイドラックのテーブルにカルテなどを記入したボールペンが置きっぱなしになっていた。先が銀色に光っている。ペンに手を伸ばし、掴む。それからそのペン先を額めがけて思いっきり振りあげる。
黒い瞳に銀色のペン先が映る。
鋭敏になった指先の神経を伝って心臓の音が頭に響く。酸素を運ぶ脈動の音はしても、荒く吐いた呼吸の音はせず、視界がにじんで、霞んだ。ぎゅっと目を閉じる。
(なにもわからなくなりたい)
包帯にペンを突き刺す。
だらり、と鮮血が額から頬を流れ、包帯を赤く染め上げた。
エピローグ
彼が目を覚ました時、何故か彼はサングラスをかけていた。
――なぜ?
血まみれなのは自傷行為のせいで、髪の謎アレンジは妹がやったのを覚えていた。だが、サングラスに関しては……学生の頃に一度かけたことがあったが、姿見に映る姿はとてもじゃないが似合うとは言えなかった。尤も彼は流血したとて容姿端麗だから、それは恐らくサングラスのチョイスのせいなのだが……
それでも外す気力もなく、まだ意識が少しふわふわしていたから……浮上した理性が傍迷惑を糾弾し早く死ねと耳元でわめき目も当てられない凄惨な現実とフラッシュバックにトドメを刺される前に、手元にあったペンを取り、バイオレンスな現実逃避に及んだ。まるで財布のコインをゲーム機に投入しているようだった。怪物が跋扈するような世界だから、多少の致命傷は問題ない……ということにしておこう。深入りは悲劇しか生まない。
直前に神経が恐怖に粟立ち、反抗するように震える手を下せば鎮痛剤も効かない痛みが理性を乗っ取った。体か心が壊れるその日まで、絶えない不安も繰り返す恐怖もすっかり忘れて、せめて穏やかな気持ちで眠っていよう――
そういえばアイツ、泣いてたな。
意識がふらりと四散した。
(ピエロ 完)
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