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思い出す錆びた自販機

わたしは殺風景な田舎で育った。田舎といっても自然豊かな場所ではなく、街でもなく、過疎化が進んでいて、取り立てて話せるようなことが何もない、何の特徴もない町。
中学まで地元の学校へ通っていたけれど、とても閉鎖的な人間関係で息が詰まる場所だった。誰かを傷つけるような発言でなくても、思っていることを口にすれば性格が悪いと言われ、可愛い服を着れば、自信過剰といわれてのけ者にされる。人とうまくやるには心に嘘をつき、四六時中体操着だけ着ていると、去った人たちが戻ってくるくだらなさがあった。
もっと広い世界と自由をいつも求めていたけれど、それ以上に、ただ自然体な自分でありたかった気がする。

だから育った場所に対する郷愁感を持ち合わせていない。
大人になって、知り合って間もない人たちから故郷について訊かれることは多々あるけど、少し突っ込んだ話題になるといつも言葉に詰まってしまう。
故郷を思い出す瞬間、わたしの目の前に現れるものは、いつも遠くへ行きたいと思いながら見つめていた遮るもののない空と、そして、錆びついて放置された自動販売機。

今、東京の中心で暮らしていて、人気のない場所にあんな風に置き去りにされている錆びた自販機なんてまず見ない。
もしかすると、郊外へ行けばあるのかもしれないけれど、でも、少なくとも、今、私が住んでいる場所で暮らしている子供たちはきっと、あんな物体を見たことないんじゃないかな。

夏にはものすごく大きな白蛾が自販機に侵入し、ウィンドウに張り付いていて、何度もギョッとしたことを覚えている。
それから、どうやって消えたのか見本が数本なくなっていたり、または器用に1本だけ倒れていたり。そんな錆びた自動販売機がぽつりぽつりと通学路にあった。

下校時の黄昏、その自販機の前に立ち、買うわけじゃないのに何度となく眺めていたことがある。あの寂しさ、そこら中に漂っている空気から孤独だけ吸い取って閉じ込め立ち尽くしている、そんな雰囲気だった。

時間がたくさん過ぎて、どんなに遠くに離れても、あの寂寥感を思い出せばいつだって今ここに冷たく浮かび上がる。いつでも私のなかに存在している。子どものころの私に会いに行く入り口であり、そのドアを抜けると、あの通学路でじっと見つめる私の目の中にまた入り込んで向かい合う。

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