南東の空、記憶に出逢う

過去、それから、未来かな?と思える映像が
ぽんぽんっとあたまに入ってくることが
多々あるのだけど、

とくに実家にいるときは、
過去に見ていた映像が頻繁に入ってくる。

わたしはいつも南東の空を見ながら、
ふたつのことについて考えていることが多かった。

ひとつは、
いつもここじゃない何処かのことを考えていて、
ここから出たいとか、
じぶんの居場所はここじゃないとか、
遠くへいきたいって思いながら
ずーっとずっと空ばかりみていた日々のこと。
物心ついた時から高校を卒業するまで。

小さい頃はお父さんのアタッシュケースに
身の回りの小物をいれて、
ひんぱんに華麗なる家出をくりかえしてた。
100mくらい離れたおばあちゃんの家へ行くだけなんだけど、
ドラマの真似をしてしっかり置き手紙まで書いてみたり。

旅立ちます
探さないでください
的な。

その道程、田舎の畦道は、
TVでみていた出発の地の定番
「ここは成田!(キラキラ)」に様変わり、
そして、とても遠いところへ向かう気持ちだった。

どこに居ても馴染むことができなかった。
学校、社会。大人になってもそうだったけど。
じぶんの本当の居場所をずっと求めていた。
こころがしっくりくる場所を。

ふたつめ、
空を見ながら、
じぶんには弟がいると思い込んでいたこと。

実際には兄はいるけど、弟はいません。
母親にもしつこく訊いてきたけど
もういい加減にして(笑)って感じで
でもこの世界のどこかにいると、
いつも空をみながら思ってた。

そして、小学校低学年の頃は、
弟宛に、宛先不明の手紙まで書いて、
ポストに入れていた。
いつしか自然と手紙を書くことはやめたけれど。

わたしのこどもの頃の部屋は南向きで
窓からの視界も良好なのに、
いつも物思いに耽るときは、
決まって南東の空へ向きをとっていたのが、
今おもうと不思議だなあと思う。

今でもあの頃の映像が入ってくるたびに、
こどものころの自分に出会う。

それは記憶であり、
また、別の次元で、
まだ現在進行形ですすんでいるような。
こどもの自分がそこに居て、
じっと空を見つめたまま変わらずに存在している。

今でも空を見るのがとても好き。
見上げるたびに、
じぶんの胸にある空も、色でいっぱいになる。

突き抜けるような青、
逢魔が時の葡萄色、茜色、
黄丹色のかがやきや嵐の前のカオス、
虹、星空...
目に映るものぜんぶ、
この胸のなかにあるものと同じ成分であるように感じるよ。

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