僕らは膜で生きている
僕らは膜で生きている。そう認識したのは、左の指先をカッターでスパッとやってしまった数日後に、治りかけてきた時だった。
普段、模型をつくる時でも紙を切る時でも、カッターを使う時には細心の注意を払いながら、押さえている指先に意識を集中させていた。その時は、今から思えば気が抜けていたとしか思えない。何となく急いでいたのもあったが、立ったまま、姿勢もロクに正さず、替えたばかりの真っさらな刃のカッターで紙をひと断ちした時に、紙を押さえていた親指の先が薄く剥がれたのが分かった。
一瞬、痛みも無く、あれ?と思う程度だったが、親指のシルエットが明らかに変わっていることに驚いた。ヤバい!と思わず親指を口に含んで舌先で傷口を舐めるも、痛みがじわじわと増してきた。血の味が口の中に広がり始め、口から離して指先を見てもどんどん血が滲み出てきていて、再び傷口を吸った。
止血!と思い、近くにあった髪ゴムを親指の根元に巻きつけた。親指全体の細胞が死ぬ前に、血が止まれば外してよかったんだっけ?などと考えながらも、心臓の鼓動に共鳴するかのように指先の痛みが鼓動していたことに、少しパニックになっていた。自身の不注意をなじり、持って行き場の無い言葉にならない言葉を発していた私を、飼い猫が不安そうに見上げていた。
落ち着いた頃に、切り傷の止血法みたいな動画を見た。それによれば、傷口を心臓より高い位置にして軽く左右に揺する、とあったのでそのようにしてみた。気を許して心臓より下に持っていったりするとすぐに、痛みが鼓動して血が滲み出てきた。ココでも私たちは重力には逆らえないのだ、ということが分かった。
そこからの2日間は、左手は水にかからないようにシャワーを浴びたり、食後の洗い物もムスメや妻に頼る日々だった。
3日目、痛みも引き、傷口も乾きはじめ、ビニール手袋でガードしながらシャワーを浴びていた時、何かの弾みで、傷口に何かが当たった時だった。シャワーの湿気もあったとは思うが、痛みとともに傷口から血なのか粘液なのか分からないものがじわじわと出てきた。
その時に、身体というのは骨以外の中身はとても液状なもので構成されていて、皮膚がそれを覆いながら保護しているものなんだな、ということがイメージされた。膜の破れた親指の先端において、外気の圧力との再均衡を保とうと努力し始めている私の身体。
喩えて言えば、地球が成層圏的な膜によって守られているように、内側にみずみずしく流れ行く液状な身体は、皮膚という膜に守られているのだと。