壇ノ浦決戦は、義経の卑怯な奇策で勝ったのか?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で壇ノ浦の戦いを見た。
俗に言うところの義経の卑怯な奇策「漕ぎて・水夫撃ち」で平家軍船の動きを止めた源氏方が勝利を収めたと描かれていた。
義経が漕ぎて・水夫の非戦闘員を狙えと指示したというのは資料的には無いようだが、後世、軍記物や芝居など様々な形で伝わっていて、日本人に広く認識されている。
今回のドラマでも、勝つためには手段を選ばない背景として義経の「特異な性格」が彼の登場以来描かれていて、戦場で「漕ぎて・水夫撃ち」に至る点に納得された方も多かったのではないかと思う。
『愚管抄』に木曽義仲の軍が京に迫った時、後白河法皇の近臣藤原範季が法皇に
「東国武士は、夫(労役の人夫)までも弓箭をたずさいて候えば、この平家かない候わじ」
と言ったところ法皇もほほえんで同意したとある。
すなわち、木曽義仲の軍についての記述ではあるが、非戦闘員である人夫も戦闘員であり、当時の戦場では人夫に非戦闘員か戦闘員かの区別は無かった。
さらに水軍同士の戦いに疎かった東国、源氏の兵は、水軍の戦いのルールもあまり考慮しなかった可能性も指摘されており、そうした背景からも義経は卑怯なルール無視を行ったともされている。
壇ノ浦の戦いは、義経の卑怯な戦法を行い、それが戦の勝因だったのか?
私は違うと思っている。
では、よく歴史番組で検証されている、潮の流れが勝負を分けたのか?
当時の干満の時刻を調べたりコンピューターで解析して戦を再現したりしている。
はっきり言ってナンセンスだと思う。
そんなことよりももっと根本的、本質的なことを忘れていないか。
戦いの勝因は、源氏方が平家より兵、船、矢を多く準備できたこと。
そしてそれを可能にした下準備にあったと思っている。
言い換えれば、両軍の兵力の差。
兵力が多い方が勝つという単純なこと。
そして、西国の平家方の水軍衆の調略と兵站の確保をしっかりと行ったことが源氏の勝因と言うことである。
はっきり言って、義経が「漕ぎて・水夫」を撃とうが撃つまいが、潮が流れが変わろうが変わるまいが、そもそも関係無い程の圧倒的兵力の差があったと思うのだが。
実は、壇ノ浦の戦いでは、平家一門自体の兵力は意外に少なく、わずか100艘ほどだったという説もある。
なにしろ、平家は連敗続きで、この時点で瀬戸内海の小島彦島を拠点にしているにすぎない。
瀬戸内海沿岸部の港は源範頼軍に攻略され、九州側からも包囲されていた。
平家方は、頼みの軍船の多くは松浦党などの手伝い組。
実際の戦場では阿波民部重能の寝返りもあったと言われ、源氏方との兵力差はかなりあったのではないでないかと想像する。
しかも、範頼軍の九州進出による平家包囲網により、陸上からの補給路を断たれ、矢などの武具の配備も不十分であったろう。
従って、戦う前からすでに戦の形勢はほぼ決していて、平家は源氏方に一方的にフルボッコにされただけというのが実際だったのではないだろうか。
こんな状況下であったのであれば、義経は、わざわざ漕ぎて・水夫撃ちを命令する必要はない。
結局のところ、平家軍船は兵士、矢数で圧倒する源氏の凄まじい斉射を一方的に受け、甲冑装備のない無防備な漕ぎて・水夫から巻き添えを食らって、やられていったのが実態だったのではないか。
壇ノ浦の戦いは、数で押した源氏が圧倒した、はっきり言ってそれだけの戦いである。
そして、それを可能にしたのは、先程言ったように調略や兵站確保と言った地味な下準備である。
もっとも、これじゃ、物語的には、つまんないってんでいろいろ脚色されたんだろうと私自身は妄想している。
こうして、とかく、奇策、奇襲、天才軍略家、ジャイアントキリングと戦いをもて囃し、平家の滅びの美学演出という情緒が好きな日本人好みの物語が出来上がった。
しかし、元来戦いというものはそんな甘っちょろいものではない。
おそらく当の天才軍略家の義経があの世で苦笑いしていることだろう。
最後に私の尊敬する猛将の言葉を紹介したい。
「戦いは数だよ、兄貴」
(ジオン公国軍ドズル・ザビ中将)