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幕末の村上藩

越後の最北端の鄙びた辺境にも幕末の戦争がすぐそばまで迫るにあたり、村上藩は大きな岐路に立たされていた。
あくまでも奥羽越列藩同盟側に着いて薩長新政府軍に抵抗するのか(抗戦派)、薩長新政府軍に恭順するのか(恭順派)と藩は真っ二つに割れた。

村上藩の祖は徳川家康の異母弟、徳川家十七士の一人の内藤信成であり、徳川幕府に忠義を尽くす思い、薩長外様への反発は人一倍大きかった。
しかし、一方で長岡を始めとするこれまでの戦況を考えれば、貧乏小藩である村上藩(5万石)が強大な軍事力を持つ新政府軍相手に戦ったところで一体何になろうか?城下は焼かれ藩の滅亡は必至であろう。ならば大人しく恭順すべきが賢明という考えとが激しく対立していたのである。

その両派の対立の激しさは、若い藩主が心を病んで自殺してしまう程であったという。(死因については諸説あり)

ただ、激しく対立する両派ではあったが、できることならなんとかして郷土村上の町を戦から守りたいという思いは、一緒であった。

藩論統一、避戦の試みは懸命になされていたが、結局のところは村上藩には選択の余地は無かったのかもしれなかった。

仮に新政府軍に恭順を決めたとしても、北を庄内、東を会津、米沢という強藩に囲まれた地理的状況からは、東北諸藩を裏切り同盟から離反することはとても出来る状況ではない。
結局は、同盟側に立って薩長新政府軍と戦い、そして死ぬという選択しか無かったのである。

長岡での激戦を征し、兵站の要、新潟港を確保し、新発田藩を従えた新政府軍は、いよいよ村上城下に迫ってきた。

藩主亡き村上藩の青年家老、鳥居三十郎は抗戦派であり、抗戦派藩士を集め村上城に籠り新政府軍に対し徹底抗戦の構えを見せる。
しかし、新政府軍が城下に迫ると無駄な抵抗をせずに、すぐさま村上城を焼き、庄内に仲間と共に逃亡した。
一見すると情けない戦いっぷりだったかもしれないが、結果として、村上城下はほぼ無血の開城となった。

戦後、鳥居三十郎は新政府側に出頭。
藩の全ての責任を一切一人で背負って自決。新政府側はあくまで罪人としての斬首刑を村上藩に厳命していたが、藩はこの命令だけは突っぱね、武士として名誉ある切腹として対応したという。
村上を戦火から守った英雄としての彼の功績は地元で今でも伝わっている。

彼の追悼碑は村上市内の藤基神社(祭神は藩祖内藤信成公、村上藩歴代藩主)にある。

鳥居三十郎の追悼碑
藤基神社にある
村上城本丸からの村上市街の眺め
鳥居三十郎もあの時この場から城下町を眺めていたはずである

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