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息継ぎポイントを探せ | 越城節/唄いはじめ 5 | 東京から唄う八重山民謡

越城節[くいぐすぃくぶすぃ]
越城ヨー いまらにヨー うりよう弟ぬヨー ゆぶさにヨー

玉代勢長傳編『八重山歌声楽譜付工工四全巻』(1989)pp.39-42
※引用は2006年版から

 「越城節」は長い。第1句の歌詞はたったこれだけなのに、前奏から後奏までトータルで5分15秒もかかる。つまりゆったりとしている。安直すぎて極力使いたくない表現だが、古典音楽で言われがちな、眠くなる曲というやつだ。

 師匠と先輩たちが唄うのを初めて聴いたときには、いつか自分にも唄える日が来るとはとても思えなかった。たいがいの曲は三線と唄は同じ旋律であり(三線のほうがかなり単純化されているけれど)、三線に合わせて唄えば調子っぱずれにならないのだが、「越城節」の三線は唄とは違うメロディを奏でる伴奏風。唄と三線の二つのメロディが重なり、いやが上にも曲を盛り上げ、さらに唄の低いところは重低音のようにとことん低く、高いところはメリハリを効かせてあり、荘厳かつドラマティックなのだ。

 曲が長いのに歌詞が短いということは、声を伸ばしている時間が長いのであり、母音がたっぷり聞こえる。例えば冒頭「くいぐしく」のグは10拍伸ばし続けるのだから、もとはグだったのを忘れそうなぐらいウが目立つ。シに至っては15拍伸ばすから、ほとんどイ。母音を一本調子で伸ばし続けるのではなく、旋律が上がり下がりし、強弱もつく。なんともはや、息苦しい。

 もちろん唄の途中には息継ぎポイントがある。工工四に息継ぎの記号はなく、「声切り」と「声出し」の間が正しい息継ぎの位置となる。ただ、声出しから声切りまで息が持つのかというと、ベテランにならないと無理、と言わざるを得ない。驚異的な肺活量を誇る師匠でさえも、唄によっては声切り以外のところでも息継ぎをしている。

 だからわたしなぞは最近でこそ息が長くなってきたが、当初は到底声出しから声切りまで息が持つことはなく、間に1、2回、余計な息継ぎを入れなければならなかった。

 そんな、工工四で定められた位置ではないところで息継ぎしたい場合は、なるべく瞬間技で息を吸い、できれば三線の音で息継ぎしたことを誤魔化せるような、唄を邪魔しないポイント探しが重要になる。最初にそのポイント探しで戸惑ったのは「安里屋節」だった。

安里屋節[あさとやぶすぃ]
安里屋ぬくやまにヨー あんちゅらさ生りばし
ヨーウヤキヨーヌユバナウレ

玉代勢長傳編『八重山歌声楽譜付工工四全巻』(1989)pp.133-134
  ※引用は2006年版から

 最後の囃子の部分は、ウヤキで一度声切りが入り、ヨーヌユバナウレを一息で唄うことになっているのだが、どうにも苦しくて息が続かない。そこでヨーヌユバナで短く息継ぎし、ウレと唄っていたところ、それでは唄を台無しにすると師匠に注意された。

 「なんとか一息で唄えない?」と師匠が渋るには訳があった。ユバナウレは囃子でよく使われるフレーズであり、「(~のような)世になりますように」の意味なのだが、ウヤキ=豊かな、ヨー=(呼びかけ)、ヌ=格助詞の、ユバナウレで「豊かな世になりますように」という願いが込められた囃子なのだ。ユやバで切るならまだしも、ナウレは一単語なのだから、途中で切るのはいかにも不恰好というのだ。しかし一朝一夕に息が長くなるわけでなく、「無理です」とわたしも食い下がる。

 そこで提示された息継ぎポイントが、ナの途中。あえてカナで書けば、ユバナ*ァウレ(*が息継ぎポイント)。ナを伸ばして母音のアが響いているはずなのだが、実際にはその間に息継ぎを入れ、息継ぎ後にまるで何事もなくナから伸び続けていたかのようにアを継ぎ足してからウレと唄うのだ。

 それって、唱歌の「チューリップ」で「どの花見てもきれいだな」と一息で唄えなくてレ辺りで息継ぎしたいなら、キレ*イダナではなくキレ*ェイダナと歌うということだよね? 一音の途中で切るって有りなの?……と絶句した。

 いまではこの息継ぎにだいぶ慣れてきたものの、それでもどこを息継ぎポイントにしていいのかはいまだに自信がなく、声切りまで息が持たない唄があると、まずは師匠がどこで息継ぎを入れているかを耳をそばだてて聴き、師匠が一息で唄っている場合には、適切な息継ぎポイントをお尋ねするしかない。

 再び「くいぐしく」に戻ろう。越城は地名なので、つまりはこの5音で1単語なのだ。ではこの5音は一息で唄うことになっているのかというと、そうではない。なんとここだけで34拍、約50秒かかるのだ。当然、誤魔化しながらの息継ぎも入れるのだが、じつは工工四にもグとシの間に声切り・声出しによる正統な息継ぎが示されている。その間、2拍。チャラランランと三線で間奏を弾いている間に息を吸い、続くシ~の15拍に入っていくのだ。

 島むにに不慣れだからこそ、はいはい、グとシの間で息継ぎね、と気にせず流してしまいそうになるが、「チューリップ」に置き換えてみたら、キレ(チャラランラン)イダナということだ。単語の途中でこんなにズバッと切り分けるなんて。さらに言えば、最後のクを伸ばしている最中にも声切りがあり、続く声出しからはウを伸ばす。つまり「くいぐしく」は、正統な息継ぎだけでも、クイグ*シ*ク*ゥ、となる。

 一見、不可思議な息継ぎは、「越城節」のチラシ(セットで唄われる唄)である「前ぬ渡節」にも見られる。

前ぬ渡節[まいぬとぅぶすぃ]
ぱなれまぬ前ぬ渡 波照間ぬ北ぬ渡
スリションカネスリショウライ

玉代勢長傳編『八重山歌声楽譜付工工四全巻』(1989)pp.42-43
※引用は2006年版から

 最初の声切りは、「波照間」の1音め、ハの後にある。パナレマヌマイヌトゥハ*ティロマヌニスィヌトゥ、となるのだ。なぜハだけ、息継ぎの前に行ってしまったのだ⁉︎

 誤魔化し息継ぎではなるべく1単語の体裁を維持しようとするのに、声切り・声出しによる正統な息継ぎは堂々と単語の途中にはもちろん、1音の途中にも入る。唱歌や合唱曲で習ってきた息継ぎの概念は、ここでは通用しない。八重山民謡には、自分が常識と思っていたことがいとも簡単に崩される。他所者にとっての八重山民謡の難しさであり、また、自分の内なる常識は何を核にしているのかという自問も突きつけられるのである。

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