イトヘン/東京から唄う八重山民謡

出版社勤務の編集者。元新聞記者。2016年に東京にある八重山民謡の教室に入門して以来、…

イトヘン/東京から唄う八重山民謡

出版社勤務の編集者。元新聞記者。2016年に東京にある八重山民謡の教室に入門して以来、八重山民謡とっぷりの毎日。唄三線と、伴奏楽器の箏の練習を日課にしています。

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型となること | 真南風乙節/唄い継いでいく 4 | 東京から唄う八重山民謡

 わたしたちが教本としているのは、三線のメロディを示した工工四に、唄のメロディも書き添えられた「声楽譜付」というものだ。安室流保存会で声楽譜付きが発行されたのは1989年。そんなに古い話ではない。そう、だから、師匠が故・玉代勢長傳先生に入門したころの教本は声楽譜付きではなかった。  声楽譜付きといっても、唄のメロディの音の高さが漢字で示されているぐらいで、五線譜の音符のように音を伸ばす長さまで厳密に記されたようなものではないし、強弱のつけ方などは書かれていないのだから、声楽

    • 似ているもの、似て非なるもの | 前ぬ渡節/唄い継いでいく 3 | 東京から唄う八重山民謡

       入門したてのころ、それまでほとんど音楽に興味を持っていなかったのに、突如として毎週末レッスンに通うどころか、「沖縄に行ってくる、三線買ってくる」と言い出した娘に、離れて暮らす母はだいぶ面食らったようだ。母はさして興味がないのに、よくもまあ電話のたびに唄三線の話を聞いてくれたものである。  そんな母がある日、「小説で見かけた三線の歌を聞いてみたいから、帰省するまでに練習しておいて」と、リクエストしてきた(精一杯、話に付き合ってくれたのだろう)。わたしは安請け合いしてしまった

      • 交差する感情 | つんだら節/唄い継いでいく 2 | 東京から唄う八重山民謡

         黒島から石垣島の野底への強制移住を詠っていることは、第2章の7「強制移住とマラリア」で説明したとおりである。野底では毎年、この唄を唄うために「野底つぃんだら祭り」が開催されているそうだ。お祭りのメインに悲しい唄を据えることに意外さを感じてしまうが、地元の歴史と重ねて唄が大事にされていることの表れであることは疑いようがない。  「つぃんだら」には「愛しい」と「不憫な」の両方の意味がある。なまじ「新安里屋ユンタ」の囃子のマタハーリヌツィンダラカヌシャマヨを知っていたこともあっ

        • 選曲の基準 | 赤馬節/唄い継いでいく 1 | 東京から唄う八重山民謡

           「赤馬節」は八重山民謡を代表する曲であり、喜ばしいことばが幾重にも重ねられた祝儀唄であり、座開きでもよく唄われる。冒頭に引用した歌詞と、その次の歌詞の2句がよく唄われるのだが、じつは引用した句の前に3句ある。  石垣島の宮良村に暮らす大城師番という役人が、ある日、海を泳いで上がってきた馬に出会う。言い伝えにある神が乗る馬ではないかと思い、試しに乗ってみると、予想通りの駿馬だった。この馬がタイトルの赤馬である。連れて帰り、かわいがっていたところ、八重山中に知れ渡り、評判が琉

        型となること | 真南風乙節/唄い継いでいく 4 | 東京から唄う八重山民謡

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        • 東京から唄う八重山民謡
          22本

        記事

          解釈を引き寄せる | 目出度節/唄から文化を学ぶ 8 | 東京から唄う八重山民謡

           たまたま石垣島滞在中に舞踊の発表会があると聞いて、石垣市民会館に行ったときのこと。「五福の舞」という豪華なタイトルの演目が始まり、1人目の踊り手が登場するや否や、目が離せなくなった。頭上に、頭より大きな松の飾りを載せて現れたのである。続いて竹、梅、鶴、亀。遠目にも燦然と輝く1人1福の頭飾りが5つ集まって、五福だったのだ。  ちなみに五福の意味を辞書に従って示すと、人としての5つの幸福であり、長寿、富裕、健康、徳を好むこと、天命を全うすること、である。  松・竹・梅・鶴・

          解釈を引き寄せる | 目出度節/唄から文化を学ぶ 8 | 東京から唄う八重山民謡

          強制移住とマラリア | 崎山節/唄から文化を学ぶ 7 | 東京から唄う八重山民謡

           「崎山節」は、かつて西表島西部にあった崎山村が、開墾によってつくられた史実をもとにしている。  琉球へ1605年、中国からもたらされた甘薯は、その後、薩摩を経て、さつまいもとして日本全国に広まった。旱魃に強い甘薯は、人々を食糧難からたびたび救ってきた。八重山にも1694年に中国から伝わり、食糧が安定したことから、人口が増えたのだという。  次第に村や島のなかで食糧が不足するようになったため、耕地を求めて、開墾によって新しい村が切り拓かれた。これを「新村建て」と呼ぶ。

          強制移住とマラリア | 崎山節/唄から文化を学ぶ 7 | 東京から唄う八重山民謡

          災害を語り継ぐ | 与那覇節/唄から文化を学ぶ 6 | 東京から唄う八重山民謡

           2021年、石垣市役所が、美崎町にあった旧市庁舎から、真栄里に完成した新市庁舎に移転した。51年間使用された旧市庁舎では叶わなかった、耐震構造の強化やバリアフリーが新庁舎には備わった。それだけではなく、港に面する埋立地の美崎町から、高台の真栄里への移転には、東日本大震災(2011年)や明和の大津波(1771年)の教訓が生かされたのだという。  1771年とは、かなり昔のことのように感じるが、大津波がどこまで達したのかという話題は、師匠や島の人たちから聞くことがあり、津波へ

          災害を語り継ぐ | 与那覇節/唄から文化を学ぶ 6 | 東京から唄う八重山民謡

          過酷な人頭税 | 大川布晒節/唄から文化を学ぶ 5 | 東京から唄う八重山民謡

           琉球王へ納めるための極上の布は、と唄い出す「大川布晒節」は、第2句以降、織りあがった布を海水や真水で洗い清めて色出しし、干し、貢納して喜ぶさまを詠う。情景を想像すると、清々しさや解放感が湧き立ってくる。  八重山の人々には琉球王府から人頭税が課せられていた。1637年に始まり、1659年には定額人頭税(八重山全体での上納高を、人口の増減や気象に関わらず一定に課す)になった。  対象者は15歳から50歳までの男女。米納が基本であり、麦や粟などの他の穀物や、布、海や山の産物

          過酷な人頭税 | 大川布晒節/唄から文化を学ぶ 5 | 東京から唄う八重山民謡

          賄い女の人生 | 仲筋ぬぬべま節/唄から文化を学ぶ 4 | 東京から唄う八重山民謡

           八重山民謡に描かれる女性として「賄い女」を無視することはできないだろう。離島や、石垣島のなかでも中心地から離れた場所に置かれた村番所に蔵元から派遣された役人は、妻子がいても単身で任地に赴いた。3年間の任期中に身の回りの世話をするという名目の現地妻が賄い女である。  村中の少女たちから、器量良しが選ばれていたのは言うまでもない。当時の役人の権威を考えれば、指名されれば断りようがない。  「仲筋ぬぬべま節」では、新城島の役人の賄い女となって竹富島を去ったヌベマを思って、竹富

          賄い女の人生 | 仲筋ぬぬべま節/唄から文化を学ぶ 4 | 東京から唄う八重山民謡

          布と女性たち | 大浦越地節/唄から文化を学ぶ 3 | 東京から唄う八重山民謡

           「蔵ぬぱな節」でもう一つ引っ掛かるのが、女性の登場の仕方である。役人という男社会の話のなかに、一見脈絡なく、女性が登場する唄は少なくない。それも、かなりの高確率で、二十歳に満たない少女を指す「みやらび」(女童、宮童、乙女、美童など複数の表記あり)である。  流麗なメロディの「大浦越地節」は西表島の唄で、琉球王府から派遣されてきている役人が八重山の村々を数日間ずつ巡回する「親廻り」を描写している。大浦という峠道に、でこぼこした道にと唄い出し、第2句では「なさま布はゆかば 宮

          布と女性たち | 大浦越地節/唄から文化を学ぶ 3 | 東京から唄う八重山民謡

          被支配の歴史 | 蔵ぬぱな節/唄から文化を学ぶ 2 | 東京から唄う八重山民謡

           わたしと同世代の人たちは、おそらく、沖縄県で教育を受けた人以外は、沖縄史について学校で学んだことはかなり少ないだろう。高校で日本史を選択していた人なら少しは知っていたのかもしれないが、世界史選択だったわたしは、漠然と琉球王国であったことを知っているぐらいで、かなり乱暴な言い方になってしまうが、沖縄戦で初めてわたしの日本史年表に沖縄が出てきた。ひょんなことでミンサー織の研究を始めた20年前、ゼロから沖縄史を学ばなければならず、あまりにも知らないことだらけで愕然とした。  ま

          被支配の歴史 | 蔵ぬぱな節/唄から文化を学ぶ 2 | 東京から唄う八重山民謡

          情報のつかまえ方 | ひゃんがん節/唄から文化を学ぶ 1 | 東京から唄う八重山民謡

           20年前に比べると、八重山にかんする情報は格段にネットに溢れている。わたしもしばしば検索しては活用させてもらっているが、当たり前のことだけれど、間接的に得た情報は実感に乏しい。八重山民謡が暮らしを詠っている以上、実感という手応えがほしいのだが、東京に暮らしていながら、ないものねだりである。  「ひゃんがん節」の「ひゃんがん」はカニの一種だ。宮里村の女性が第1句でカニを、男性が第2句で魚をとっている。第3・4句は仲本村の女と男、第5・6句は東筋村の女と男が、それぞれ海産物を

          情報のつかまえ方 | ひゃんがん節/唄から文化を学ぶ 1 | 東京から唄う八重山民謡

          誰でも、いつでも | しょんかね節/唄いはじめ 9 | 東京から唄う八重山民謡

           ある日、わたしは「しょんかね節」を唄うと、みょうに眉間が疲れることに気づいた。「しょんかね節」はコンクール最高賞の課題曲の1つで、難曲である。難曲だから節回しに苦悩してしまい、つい眉間にシワが寄るのだが、たかがシワを寄せただけで眉間に疲れを感じたことは、ほかの場面では経験がない。だから、とうとうわたしにもあれが来たのかと胸が躍った。  あれとは「ウムイ」、漢字で書けば「思い」のこと。節回しがおぼつかなかった新人賞のころを除けば、ほぼ年がら年中、師匠に「唄にもっとウムイを入

          誰でも、いつでも | しょんかね節/唄いはじめ 9 | 東京から唄う八重山民謡

          暮らしを映す | くいぬぱな節/唄いはじめ 8 | 東京から唄う八重山民謡

           現在では島民が15人ほどしかいないという新城島は、定期船の運行がないこともあり、わたしはいつか行きたいと憧れ続けているだけでまだ行ったことがない。その新城島を詠った「くいぬぱな節」は、まだ見ぬ風景を描写しているからこそ、想像力を掻き立てる。  織り上げた布を海で晒す女性がいる光景は、写真では見たことがある。カッと照る太陽の下、エメラルドブルーの空と透き通る海、白い砂浜と雲と布。溢れんばかりの詩情だ。  この先、第2句になると今度は、男がタコを獲っている。第3句では男が愛

          暮らしを映す | くいぬぱな節/唄いはじめ 8 | 東京から唄う八重山民謡

          大事なことは二回言う | 舟越節/唄いはじめ 7 | 東京から唄う八重山民謡

           伊原間は石垣島の陸地が極端に幅狭くくびれているところで、その幅200メートルほどだ。玉取崎の展望台からは、環礁とそのくびれを鳥瞰図のように見下ろすことができる。石垣市街から距離はあるが、幾度となく訪れていたこともあり、「舟越節」を習ったときにすぐに伊原間の景色が脳裏に浮かんだ。島々、村々を詠んだ唄を同定しながら唄うのは、八重山民謡の楽しみ方の一つだろう。  その伊原間村は明和の大津波(1771年)で大打撃を受け、約3キロメートル離れていた舟越村と合併したころに、「舟越節」

          大事なことは二回言う | 舟越節/唄いはじめ 7 | 東京から唄う八重山民謡

          唄はみんなのもの | 月夜浜節/唄いはじめ 6 | 東京から唄う八重山民謡

           八重山民謡は、著作権がないらしい。現在の基準でいえば、著作者の死後70年が経過していれば著作権の保護期間は終了するのだから、仮に著作権がかつてはあったのだとしても、いま唄う分には特段問題ないのだが。  著作権以前に、作詞作曲者がわからないものも多い。翻っていうと、いつ誰が作ったものなのか、そんなには気にしていないようだ。師匠もたまに「これは新しい唄です」などと説明することはあるが、わりと古い時代に成立した唄(八重山の土着の度合いが高いもの)と、新しい時代にできた唄(八重山

          唄はみんなのもの | 月夜浜節/唄いはじめ 6 | 東京から唄う八重山民謡