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情報のつかまえ方 | ひゃんがん節/唄から文化を学ぶ 1 | 東京から唄う八重山民謡

ひゃんがん節[ひゃんがんぶすぃ]
宮里女童ヨウスリ 前ぬ干瀬ぬ ひゃんがん取れヨウ
スリトゥイルカラ ひゃんがん取れヨウ

玉代勢長傳編『八重山歌声楽譜付工工四全巻』(1989)pp.66-67
※引用は2006年版から

 20年前に比べると、八重山にかんする情報は格段にネットに溢れている。わたしもしばしば検索しては活用させてもらっているが、当たり前のことだけれど、間接的に得た情報は実感に乏しい。八重山民謡が暮らしを詠っている以上、実感という手応えがほしいのだが、東京に暮らしていながら、ないものねだりである。

 「ひゃんがん節」の「ひゃんがん」はカニの一種だ。宮里村の女性が第1句でカニを、男性が第2句で魚をとっている。第3・4句は仲本村の女と男、第5・6句は東筋村の女と男が、それぞれ海産物をとっている。黒島の村々の得意な漁を、ノリよく唄っている唄だ。

 その第6句、東筋村の男性がとっている「いらふつ」が、イラブチャーなのだそうだ。八重山で刺し盛りといえば必ず入っているイラブチャー。ブダイ科の一種で、熱帯魚らしい青色の皮が特徴的なイラブチャー。養殖が盛んになったのだろうか、最近では東京でもマダイの刺身が安価に買えるようになったが、一昔前まで鯛の刺身は滅多にお目にかかるものではなかった。イラブチャーはいつでも分厚く切って盛られている。鯛なのに噛んで噛んで歯応えを楽しめるほど分厚く、そして美味であることに、初めて食したときには感動しきりだった。

 だがそのイラブチャー。八重山の人に聞くと、「食べすぎてもう飽きた」「煮たらおいしい」と言う。お刺身でもいける鯛なのですよ、と東京人が力説してもしょうがない。海に囲まれた島なのだもの。

 「いらふつ」を、憧れの厚切りの刺身として唄うのか、食卓に頻出する一品として唄うのか、ウムイの置き所がまるで違うではないか。残念ながら、島の人たちとわたしの間には、この手の齟齬は少なくない。

 師匠はレッスンの合間に、石垣島にいたころの話をよくする。旧盆行事のアンガマがどのように行われ、そのときに「無蔵念佛節」をどう唄うのかといった、民謡に直接にまつわる話であることも、まったく関係ない話であることもある。

 回想録で印象的だったのは、かつては家々で豚を飼っていて、師匠の家にも豚がいて、きょうだいと一緒に近所で豚を散歩させていたこと。猛烈な台風が襲来し、小学校の鉄筋コンクリートの校舎に避難していたが、そのときに木造校舎が倒壊したこと。塩煎餅は1セントだったこと。沖縄の日本復帰に向けて、手に手に手作り提灯を持って集まり、平和行進したこと。1977年7月30日に車が左側通行に変わったこと。師匠の好物であるサヨリは、浅瀬でサバ缶の油を染み込ませた麩を餌に釣って、唐揚げにするとおいしいこと(サヨリだって東京なら断然、刺身にするはずだ)。カラオケセットが家にあって、後に有名歌手になる少女が歌いにきていたこと。頭の発汗対策には髪全体をやや細めのアイロンで巻いたパーマが有効で、この独特の緩めのパンチパーマ風の髪型をインペリアルと呼ぶこと等々。

 もちろんこれらはたった30~50年前の話で、民謡ができたころのことではない。しかし気候や環境、子どもの遊びや人付き合いの濃さなどは、その昔の時代を彷彿とさせる。

 豊年祭の開催日を知りたいために、こまめにネットでチェックしていたにもかかわらず辿り着いていなかった情報を、師匠はご親戚からいち早く聞いていて、雑談のなかで教えてくださったときにも、他所者と八重山の距離というのか、むしろ出身者と八重山の親密さを、目の当たりにしたように思った。

 と、在住者や出身者が自ずと手にしているさまざまな知識や情報は、他所者にとっては、意識的に獲得しようとしてやっと手に入ったり、偶然任せでたまたま知ったりという具合だ。偶然任せのほとんどは、師匠の雑談からもたらされる。師匠には、三線や唄の技術、歴史、島むにだけでなく、ネットでは得られないような知る人ぞ知る八重山までも習っていることになる。

 この章では、師匠から聞いたことをヒントに、自分で調べたことも加えながら、民謡に頻出する言葉や概念、風習などを整理しておきたいと思う。

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