先生__表紙_

「先生、私、きっぱりと辞退したのですけれど」

 

 以下の小説は、私の中・短編集『スズキ』に収録された「先生、私、きっぱりと辞退したのですけれど」という中編小説である。『スズキ』のなかでは、表題作「スズキ」と、この「先生、私、きっぱりと辞退したのですけれど」の評判が、特に高い気がする。
 とある私立大学の法学部の教授も『スズキ』を読んで、完成度の高さでは「スズキ」がいちばんだが、私の好きなのは、君島ミクという美少女が出てくる「先生、私、きっぱりと…」だといっておられた。
 高名な法学者から褒められたこともある。
 「先生、私、きっぱりと辞退したのですけれど」は、青春ミステリのカテゴリーに入る作品だろうが、作者としては、エンターテイメントと文学の狭間にある作品、という気持で書いたものである。
 ミステリアスなぜったいエースが探偵役になって、事件の謎を解く小説である。

@ 君島ミク
 
 ミステリアスなぜったいエース。元AKBの前田敦子じゃあるまいし、私はどういう女なのだ、と君島ミクは思った。昨年度の試験においてすべての成績が学年トップだったから、そう呼ばれているらしいが、ミクは高校内で起ったほとんどの雑事には興味がなかった。超絶美少女というあだながついたこともあった。じぶんが美少女であることは知っている。知っていることは面白くない。だから、むしろ君島ミクには怪異が取り憑いているといううわさのほうにこそ、興味がわいた。
 どういう意味なのだろう、と。
 ミクは親友をつくらない。誰にも心を許さない。じぶんはそういう人間だから、それしかないと思っている。それでいいと思っている。

 颯爽と片手があがったとき、教室がどよめいた。
 振り返って見ると、骸骨のように痩せ細った男だった。黄色い目ヤニがたまっている。歯並びが悪く、しかもすごい出歯だった。頭のつむじを中心に禿げていた。髪の毛を長髪にしてムリヤリ撫でつけていたが、地肌が見えていた。ドラクエで、「腐った死体」というキャラのモンスターがいるが、あれに雰囲気が似ていた。全身から悪い気を放っている感じだ。エビのように後ずさりしたい気分になる。
 名前は知らない。
 クラス替えがあったばかりで、知っている顔と知らない顔が半々ぐらいだった。もともと他人にはほとんど興味がなかったので、必要最低限の人間以外は顔と名前を覚えていなかった。それにしても、クラス委員長に立候補するなんてよっぽど暇なのだろうか、とミクは思った。ここは進学校で、面倒臭い用事をいいつけられるクラス委員長になりたがる人間などいない。
 もう一人、さっと手をあげた人間がいた。女子だった。
「はい、どうぞ」
 女の担任がいった。
「君島ミクさんがいいと思います」
「推薦ということですか」
「はい」
 思いがけずじぶんの名前が出て、ミクはガタンといすから立ちあがった。
「辞退します」
 当然だ。何が悲しくて、クラス委員長をやらなければならないのだ。
「私も推薦します」
 可奈が手をあげていった。可奈とはわりとよく話をする。ミクは鼻を鳴らして、むっとした。
「辞退します」
 ミクはもう一度、強くいった。
「君島さんは一年生のとき、すべての試験で、学年トップの成績でした。クラス委員長にふさわしいと思います」
「そんなこと、関係ありません。謀略です。やりたいひとにやらせればいい」
 馬がヒヒンといななくような声が響いた。ミクは馬のすがたを追った。さっき、颯爽と手をあげた男だった。目玉が飛び出すような勢いで、ミクをにらみつけていた。
「謀略とは何だ。失敬だろう」
「何の話?」
「おれに失敬だといっているのだ」
 なんだ、こいつ。
「いずれにしろ、私は辞退です」
「待て。それでは誰も納得しない。おれだって納得しない」
「私はあなたのほうがクラス委員長にふさわしいといっているのです」
「そうは聞こえない。おれをばかにしているようにしか聞こえない。ぜったいエースだと思って、優越感にひたっているのか」
 何の話だ。
「君島はおれたちをばかにしている。そうは思わないか、みんな」
 その男は睥睨するように教室じゅうを見まわした。扇動しているつもりなのかもしれなかったが、クラスメイトの反応は薄かった。誰もついてこない。この男の暴挙に啞然としているばかりだ。
「一人よがりのエースに、クラス委員長は任せられない」
 男は教室の空気を読まずにさらにつづけたが、任せるもなにもさきほどから私はやりたくないといっているのだ、とミクは思った。
「ほかに立候補するひとは、いますか?」
 担任が教室じゅうを見まわして尋ねた。
「来週のこの時間は学校行事があるので、再来週この時間に投票で決めます。よく考えておくように」
「先生、私、きっぱりと辞退したのですけれど」
 ミクはいった。当然だ。
「いいえ、投票で決めます」
 担任は冷やかな視線で、却下した。ドラクエの「腐った死体」のような男が相変わらず二十センチくらい飛び出したような目玉で、ミクをにらみつけていた。
 悪い気が移されそうで、ミクは顔をそむけた。

 昼休み、机で読書をしていると、可奈が寄ってきた。
「ぜったいに勝ってよ、ミク」
「なんで勝たなきゃならないのよ。負けたいのよ、私は」
「そんなことをいわずにさ、みんなのためだと思って」
「却下。私の趣旨に反する」
「嫌われているから、みんなに」
「何の話?」
「あいつよ」
 可奈が急に声をひそめていった。
 名前をはっきりとはいわなかった。まるで忌まわしい者の名前、ヴォルデモートのように。
「我王」
 あのキモメン、とつづけた。ミクはちらっと視線を送った。なるほど。キモメンとはいいえて妙だ。
「いるだけで、気持が悪いの。すべての窓を全開にして、新鮮な空気に入れかえたくなる。それが女子全員の総意。あいつだけはいや」
 可奈がいった。
「だったら可奈がなればいいじゃない」
「私じゃ力不足なのよ。あいつさ、やたらと弁が立って、私たちでは手に負えないの」
「そういう面倒くさい男と私を闘わせようというわけ?」
「そうよ」
 可奈はこともなげにいった。
「ミクしか勝てないから」
「だから、勝ちたくないんだってば、私は。コンプレックスが複雑なひとはいやなのよ。疲れるから」
 見るからにそういう男だ。
「叩きのめしてやってほしいの」
 可奈がいった。また話が飛躍した。
「何なのよ」
 ミクが尋ねた。
「夏帆がひどいことをされたのよ。図書室で、延滞本の注意をしたの、あいつに。そうしたら注意のしかたがおかしいといいがかりをつけてきて、じぶんは謝らずに、夏帆に謝らせたのよ。夏帆は図書委員でしょう?」
 思い出した。ミクはその場にいたのだった。四月に入ってすぐのことだ。図書室の閲覧室で、とつぜん壁が震えるような大きな弩声が響きわたった(うちの図書室は別棟にあって、建物自体が古いのだ)。うるさいな。ミクは読書を邪魔されて、不快になりながら目をあげた。
 ああ、あのときの男か。
 可奈は机にすわっていた夏帆を手招きして呼んだ。
「夏帆、おいで。もう一度、さっきの話をしてよ」
 なんだよ。話聞くのかよ、とミクはうんざりしながら思った。

 @ 夏帆

 夏帆は図書室のカウンターにすわっていた。春休みだというのに、新委員が決まるまで図書委員をやらされていた。
「あ」
 我王だ、と夏帆は思った。
 学年では有名な男だ。顔の造作は遺伝子の部分が大きく、結局は運不運なのだと思っているけれど、この男の顔を見ると、そうではないのだと確信する。顔が不遜な性格をまるまる映し出しているからだ。異形の顔。
 我王がかばんから本を出した。指が接触しないように気をつけながら、返却の操作をした。ぴいっと音がして、コンピュータが画面に返却期限切れの警告を発した。
「次回からは延滞しないように気をつけてください」
 夏帆は型どおりの注意をした。
 我王は夏帆をちらりと見ると、これみよがしに首を左右に振った。スローモーションで。まるで時間稼ぎのように。
母親が交通事故に遭って入院したんだよ、と我王は小声でいった。
「は」
「だから学校が終ると、すぐに帰らなければならなかったんだ。本を返したかったが、返せる状況になかったのだ」
 だったら放課後じゃなく昼休みに返却すればいいじゃん、と夏帆は思ったが、口にはしなかった。
「規則は遵守しなければならない。それはそうだ。でも、母親が交通事故に遭っても本を返しにこいときみはいうのか」
「そこまではいっていませんけれど」
「じゃあ、どこまでいっているのですか」
 嫌みないいかただった。
「延滞には注意してください、といっただけですけれど」
「きみは人間の心を持っていないのですか?」
 人間の心を持っていないのは、どっちだ。
「おれだって、延滞したくてしたわけではない。状況が状況だったからだ」
「はい、よくわかりました。次回からは気をつけてください」
 夏帆はため息をついていった。それで終了のつもりだった。
「そういうことじゃないよ。そういう話をしているんじゃないんだ。謝ったらどうなんですか、おれに、と、そういう話をしているんです。親が交通事故に遭って傷ついているおれに、無神経なことを平然といった鈍感なきみから謝罪のことばがあってしかるべきだといっているんです」
 夏帆はおどろいた。謝る? 私が? なぜ? 
「それとも、親が交通事故に遭っても延滞するなというのがこの図書室の統一的な見解なのですか? だったら、責任者の先生を出してください。公議します」
 我王は噛みつかんばかりの勢いでいった。統一的な見解とかなにやら話が大きくなって、面倒くさそうだったので、夏帆は頭をさげた。失礼しました。ごめんなさい、と。
 我王は満足そうにうなずいた。これで帰るだろうと夏帆は思ったが、我王はまだ帰ろうとはしなかった。
「責任者の先生を出してください」
 夏帆は首をひねった。
「なぜですか」
「きみの対応を報告したいからです」
「私はいま、謝ったと思いますが」
「それはそれ。これはこれです」
「は」
「先生を早く呼んでください」
「面倒くさい」
「なんだ、その無礼な態度は」
「だって本当のことだから」
「おまえなんかに図書委員をやる資格がない」
 我王は閲覧室じゅうに響くような大声で怒鳴った。
「なにそれ。資格って。ばかじゃないの。選ばれちゃったからやっているだけ」
「逆ギレかよ!」
「そっちこそ、頭おかしい」
「なにを揉めているの」
 責任者の女の先生が事務室から出てきた。夏帆は簡潔に説明した。先生は軽くうなずいた。
「きみの個人的な事情はわかりました。彼女は一般論として注意しただけです。他意はありません」
「今回の件ではなく一般論として了解しました。先生を呼んで話しておきたかったのは、本の延滞者にもそれぞれ固有な個人的な事情があり、いちがいに同一の対応をするのはいかがなものなのかということなのです。それを理解していただきたかっただけなのに、そこの無知な女に逆ギレされたのです」
 我王は夏帆を見た。夏帆は納得がいかなかったが、何もいわなかった。我王は含むような笑みを頬にためると、満足そうに帰っていった。
「なに、あの子。クレーマー?」
 先生は迷惑そうにいった。

 夏帆は基本的に善良な人間だ。だが、今回だけは許さない。ぜったいに仕返ししてやる、と図書室のカウンターで、夏帆は心に誓った。

 @ 我王

 弟の部屋は相変わらず静かだった。ネットゲームにはまって、部屋から出てこなくなったのだ。食事は母親がトレイにのせて部屋のまえまで持っていき、置いておく。犬かよ。この春、入学が決まっていた高校を辞退して本格的にこういう生活になったのだった。部屋にひきこもりはじめたころ、我王は注意したことがあった。いまどきばかでも大学にいくこの時代におまえは何をやっているのだ、と。
「兄さんだってわかっているはずだ。ネトゲしかぼくの居場所はないんだ」
 弟は荒々しくいいかえした。
「どういうことだ」
「ネトゲではぼくは選ばれし者なんだ。チームのリーダーで、ぼくが判断し、チームを勝利に導いていく。ぼくのチームは連戦連夜、勝ちつづけている。チームにはぼくが必要なんだ」
 そういう内容のネットゲームにはまっているのだろう。
「それがどうした。ゲームの話だ」
「そうだ。ゲームの話だ。でもネットのなかではあちこちに仲間がいて、ぼくを待ってくれている」
「いいかい、弟。たかがゲームだ」
「そうだ。たかがゲームだ。でも、そこだけが正しくぼくの居場所なのだ」
「何があった?」
 我王が尋ねた。
「去年、好きになった女の子にコクった。うわっキモい、といわれて逃げられたんだ」
「最低だ。その女は」
「彼女のことを悪くいうなよ、兄さん。心の清い、本当にいい子なんだ。悪い印象を持っていない」
「なにいっているんだ。おかしいぞ、おまえは。心の清い、いい子がどうしてそんなことをするんだ?」
「彼女が悪いんじゃない。ぼくが悪いのだ。ぼくのみてくれが悪すぎるからだ」
 我王の胸に氾濫した河のようにかなしみがあふれてきた。その気持がよくわかったからだ。おれだってずっとそういう扱いをされてきたのだ。おれがいるだけで、その場の空気が悪くなる。窓をあけて! と叫んだ女がいた。可奈とかいう名前のクラスメイトで、駅まえのちっぽけな本屋の娘だ。クラスの男子に新人女優の誰かに似ているとおだてられて、調子に乗っているようだが、かならず思い知らせてやる。
「ネトゲのぼくは選ばれし者の顔をしている。美しい見ためをしている。これがぼくの本当のすがたなのだ」
 弟がいった。
「いや、ちがうよ、弟。それは、ただの絵だ」
「ちがう。これこそがぼくの本当のすがたなのだ」
 弟は仮想現実のなかにいる。じぶんの現実から逃げている。でも、そんな弟をおれは否定する気にはなれなかった。おれだってどれだけクラスメイトのやつらから傷つけられてきたことか。おれは弟がこれ以上、傷つけられるのは見たくない。悪いのは弟ではない。おれたちをキモいといったやつらなのだ。
我王は時計をのぞいた。夜の十一時だった。姉がまだ帰ってこなかった。我王はいらいらする。ここのところ、姉の帰りがいつも遅い。理由はわかっている。居酒屋の店員のバイトだ。毎晩、バイトばかりしている。じぶんから希望して入学した専門学校だったが、ろくに授業に出席していないようだった。みためは姉もキモかったが、男はいるようだ。姉がつきあう男には恋愛感情などはないのだ。姉がすぐにやらせるから、相手にしているだけなのだ。姉はそれに気がつかない。あるいは気がつかないふりをしている。
 我王は泣く。姉の涙を我王は流す。姉の純情が踏みにじられているのだ、と。

 @ 君島ミク

 毎週、土曜日の夜、ミクは自宅から歩いて十五分ほどの公園で野宿することに決めている。
 住宅街のなかにあり、大きくはない。かといって小さいわけでもない。ブランコやすべり台、砂場、ベンチなどの設備がある。たまにホームレスが出没しているらしいが、問題になるほどではないようだ。
 公園灯や街路灯が充分に備わっている。
 夜になってもそれほど暗くはない。

 野宿をはじめてから半年がたつ。
 最初はおそるおそるだったが、いまではたいていのことになら対処ができるようになった。
 ミクはべンチのうえで寝袋に入って寝る。ここがお気に入りの場所だった。寝袋のなかから夜空を眺める。夜空には星が出ているときもあれば、出ていないときもある。眠くなったら目を閉じる。いつの間にか眠りに落ちる。
 目をあけると、朝がきている。

「三十分後には雨」
 ミクが寝袋に入ってうとうとしていると、女のひとが教えにきた。相当な美形のお姉さんだ。学生をしているといっていたから二十歳前後だろう。本名は知らない。天候さんとミクは呼んでいる。雨雲の動きに敏感でよく当たるから、ミクが勝手にそうニックネームをつけただけだ。本人も天候さんと呼ぶと、なぜかうれしそうにいそいそと返事をする。天候さんはミクのように一週間に一度の野宿者ではない。しょっちゅうこの公園で寝泊まりしている。といっても、家出しているわけではなく、ちゃんとした家があるようだ。どういう事情でそうなっているのかは、聞いたことがない。
「わかった。避難します」
 ミクは寝袋から一度出ると、移動することにした。歩いて数分のところに神社があるのだ。軒下にいけば雨はしのげる。
「ありがとう。で、天候さんはどうするの?」
 ミクは尋ねた。
「今夜は彼氏のうちにいくから帰る」
 天候さんは鼻歌をうたいながら、にこにこして帰っていった。野宿本格派の天候さんにも彼氏はいるのだ。

 ミクは土曜日ごとに野宿をする。

 @ 夏帆

 一週間に二回、放課後、図書委員がまわってくる。
 夏帆は本が嫌いなわけじゃなかったし、図書室のカウンターにすわって本を読んでいればいいと聞いていたので、選ばれたときもいやだとは思わなかった。ばらばらにやってきて、こっそりといっしょに読書しているノーマークのカップルを目撃することもあって、えっ、あの子とあの男が? と思いがけないスクープにむしろちょっとお得な気分になったりもした。あの日、我王と本の延滞の件で揉めるまでは。
 我王は毎週、水曜日にやってきた。夏帆がカウンターにすわっている日だ。延滞の件を思い出すたびに夏帆は吐き気を覚える。あの顔を見るだけで、トイレに駆けこみたくなる。
 我王は身長百五十センチの痩せた小男だった。腕力もなく、スポーツはまったくだめ。成績優秀者(学年十三位)であることが自慢であり、プライドでもあるようだった。
 こいつの弱点はなんだ。
 いちばん恐れていることはなんだ。
 触れてほしくないことはなんだ。
 なんだ、
 なんだ、
 なんだ、

 夏帆は考える。

 @ 我王

 君島ミクという女。
 我王は思った。
 あの女はなに者なのだ。おれがクラス委員長に立候補したら、これみよがしに立候補してきやがった。アニメの登場人物みたいな名前で、昨年度のすべての試験で、成績が学年トップだった。クラスメイトからぜったいエースと呼ばれていい気になっている。おれが毎晩遅くまで必死で勉強して学年でやっと十三位をキープしているというのに、努力しているおれの頭を平気で踏みつけて学年トップだと。
 おれはクラス委員長になってみせる。どんな手をつかっても、だ。
 だが、そのまえにしなければならないことがあった。
 弟を振った女のことだ。おれは弟から名前を聞き出してこっそりと調べた。うっかり彼女自身を攻撃すると、それが弟につたわってやさしい弟は心を痛める可能性がある。それはおれの望むところではない。しかも、おれだとばれると弟との関係が微妙になって、あとでややこしいことにもなりかねない。
 そこでおれは女をターゲットにするのはやめ、女の父親に目をつけることにした。女の父親は家電量販店の販売主任をしていた。おれは出勤日を綿密に調べあげ、偶然を装って店にいった。胸のポケットにつけているネームプレートを見て、女の父親であることを確認すると、商品の説明を聞くふりをして、あれこれ辛辣な質問をぶつけた。うろたえると、今度は販売態度にいいがかりをつけた。すぐに実名をあげてその量販店の上層部に強いクレームのメールを送ってやった。
 その後、どうなったのか知らないが、女の父親は上司に呼び出され、叱責ぐらいはされたはずだ。降格すればおれの狙いは大成功。もしリストラされでもしたら、場外ホームランだ。おれの大事な弟を傷つけるような娘を育てたせいだ。責任の一端は親にもあるのだ。当然の報いだ。
 君島ミクを叩こうと思って、我王は調査を開始した。
 君島ミクは怪異に取り憑かれている、というとんでもないうわさまであって、おれはあきれた。ロングヘアで、色が白い。身長は百七十センチ。とびきりの美形でティーンのファッション雑誌の高校生読者モデルに応募すれば合格しそうな美少女だった。小学生のころから居合道をならっていて、いまも居合道部に所属している。成績は学年トップだが、孤高な存在で、とくべつに親しくしている友だちはいないようだった。誰にでもフェアに冷たくうそをつかない。これはお高くとまっているといわれて、女子のあいだで嫌われるパターンのはずだが、どういうわけか、そうはなっていなかった。むしろ、その反対に奇妙な絆のようなものが頑強に築かれているようなのだ。畏敬と信頼にとりまかれている。オーラを身にまとったカリスマのような雰囲気すら漂う。面白くない。とくにフェアに冷たくうそをつかない、というところがネックだ。これで性格がよくて八方美人ならば、どこかうそくさくて、スキができるものだが、欠点があることがかえって叩きにくくしている。地方公務員の娘で、金持ではなさそうだ。
 放課後、我王は部活が終わった君島ミクのあとを追跡することにした。もしバイトでもしていたら儲けものだ、と思ったのだ。バイトは校則で禁止されているからだ。あるいは男。これだけの美形だ。彼氏がいてもおかしくはない。そんなうわさはないようだったが、いないとは限らない。すこしくらいのでっちあげはかまわない。インターネットにはこの高校の裏サイトがある。進学校らしい、生徒同志が足を引っ張りあう陰湿なサイトだ。あの女のネタなら話題に飢えているハイエナどものかっこうの餌食になるだろう。ラブホテルに入っていったとか、援助交際をやっていたとか、イメージを貶めることをどんどんカキコミしてやる。いい考えだ。こうなったら、男がいようがいまいが関係はない。君島ミクは男狂いだ。素人もののAVに秘かに出演しているなどとどうにでも書いてやればいいのだ。
 君島ミクは電車通学をしていた。
 我王もおなじように電車に乗った。君島ミクがとある駅のホームに降りた。我王もあわてて降りた。勘づかれないように改札口を通過してこそこそとついていく。君島ミクの家は二階建ての建売住宅の一つだった。
 どこにでもあるようなありふれた家だ。

 きょうは何の成果もあげられなかったが、我王は落胆していなかった。ひとの秘密をのぞくのは心踊るものがある。劣情がじわじわと刺激される。とくに君島ミクのような美形の場合は。
 あしたもつけてみよう、と我王は思った。

 @ 君島ミク

 ミクが住んでいる町内で、路上に寝泊まりしていたホームレスが若者の集団に襲撃されて、ぼこぼこにされるという事件が起った。幸いなことに致命的な深手を負うようなことはなかったようだったが、ホームレスが逆上して、反対に若者に襲いかかる場面もあったようだ。社会的弱者にむけられた若者の暴力はなにがきっかけで暴発するかわからない。反撃するホームレスだっている。
ミクの部屋に母親が入ってきた。
 ナナという名前で、まだ二十五歳だった。パパには似つかわしくない、美しい女のひとだった。
「ミクちゃん。公園で野宿するの、やめたほうがいいんじゃないの。何かが起ってからでは遅いのだから」
 それはそのとおりだったが、ミクにはやめられない理由がある。ううん、だいじょうぶ、とミクは気軽に返事をしながら、念のために木刀は準備しておこうと思った。
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