寄り添うということ 心の距離と孤独
父が、退院に向かっている。
ここまでの1年半ほど自宅で父のサポートに向き合っていて、近頃の介護や医療など高齢者や傷病者へのサービスの充実には、驚かされてきた。
うちが関わった施設が良かったのかもしれないけれど、その仕事のプロフェッショナルなことには、本当に頭が下がる。
ケアマネージャーさんを中心とした連携と、サービスを受ける本人と家族への関わり方の丁寧さ、親切さ。どれだけ心強いことか。
父本人も感じるところがあるらしく、リハビリやデイサービスでの様子を度々話してくれる。父自身引退するまでずっとサービス業に従事していたこともあり、もともと興味がある分野なのだ。
病院でも、症状に対する加療の他に、リハビリや食事指導など、退院後の今後の生活について包括的にケアを受けている。
入院が思ったより長く1ヶ月以上になり、やっと退院時のカンファレンスを予定するところまで来た。
家族は各自、可能な限り面会に行っている。
私も行くたびに、爪切りや髭剃り、水分補給など出来ることをしながら、家で話していたようなことを出来る限り話題にするようにしている。
父の表情が、生き生きしている時が嬉しいのだ。笑顔を見ると、ホッとして安心する。
父が喜ぶような話の仕方をしているのは、たぶん私の役目だと思っている節がある。
私と私のパートナーが元気かどうかを訊き、「わしがもっと元気やったらな…」と呟く父。
面会時間の終わりに、手を握りながら「また来てな」と言う父。
思えば父は昔から、「モノの見方」について独自の考え方をする人だ。
学歴は無いけれど好奇心旺盛で、歴史に興味がある。
知的でありたい、芸術に触れてたい、感性を磨きたい、人の心の動きに敏感でありたい、そう願い努力する人でもある。
若い時は、私も父と随分ぶつかったものだ。父も私の利かん気なところに、さぞ手を焼いたことだと思う。
でもその反面、私が本当に人生の危機に陥っている時に、黙って助けを差し出し守ってくれた。
今までのことを振り返っていて、済まない気持ちと感謝の気持ちが入り混じっていて…
今こそ父の役に立ちたいのに、何をやっても足りない気がして、もどかしい思いがする。
父以外の家族とは、関係がうまくいっていなくて、私は孤独を感じている。
本当は父ともうまくいっていないのかも、父と関わることで自分の居場所を保っているだけなのかも。
けれども今、私の孤独や困難を感じ取って寄り添ってくれているのは、父だけなのだと何故か思うのだ。
それは、私が一度死を意識する病気を経験したからかもしれないし、父が今まさに迫り来る人生の終わりと対峙しているからかもしれない。
父がいなくなったら…自分が何をどう感じて、どうなってしまうのか。考えるだけでも胸が締め付けられる。
そんな私の苦しさをよそに、時間は進む。来るべき時は来る。
父には家で、安寧に暮らして欲しい。
そのために、私は出来ることをする。
最後まで目を逸らさずに寄り添って、その生き様を見守る。