母性本能なんてクソ喰らえ
あらすじ
息子が正式に自閉スペクトラム症と診断されたのは八歳と十一ヶ月の頃だった。
私は出産をして子供の姿を見れば、私にも母性が芽生えると思っていた。
しかし現実は違った。
母性?母性って何?
母は強し?そんなのクソ喰らえだと思った。
そんな私を「お母さん本当に頑張っていますね」と周りは賞賛したが、私は自分は母親に向いていないと思っていた。今もそう思っている。
もし子育てがこんなに大変だと知っていたら、もしも時間が戻るなら絶対に産まなかったと思う。
願わくば、誰か代わりに育てて欲しい。
でも、こんな育てにくい子を私以外の誰が育ててくれるだろう。
疲れた。もう疲れた。
こんな暮らし、いつまで続くんのだろう。
いっそ、無理心中してしまおうか。
でも疲れ切っているのは私だけで、この子は人間が好きで、世界を愛し、愛されているのにそんなの身勝手じゃないか。
毎日、毎日考えた。
私はただ、目を離したら一瞬で死にに行く生き物を養育者としての義務感で守っていかなくてはいけないと、毎日自分を必死ですり減らしているだけだ。
もう一度言う。
母は強しなんて、母性本能なんてクソ喰らえだ。
これはそんな母親適正ゼロの私と育てにくさ全開の五月雨登校自閉スペクトラム症の息子の物語だ。
乳幼児編
息子はお腹の中にいる頃から胎動が激しく、お腹にエイリアンがいるのかと思うほど元気よくお腹を蹴る赤ちゃんだった。
そして調子にのってお腹の中で縦横無尽に動き回り過ぎた息子は、臍の緒がまきついて逆子になり、元に戻れなくなってしまった。
胎内記憶というのが何処まであてになるかはさておき、後に息子はこう語っている。
「早くでたーい!ってドコドコドコドコッ!っていっぱい下の方蹴ってたの!」
そんな息子の言葉通り、息子の強烈キックのおかげで子宮頚管がみるみる短くなり妊娠八ヶ月の頃、私は切迫早産で絶対安静となり結局逆子のまま元に戻らなかったので帝王切開で息子を産んだ。
自然分娩も帝王切開もどちらも命懸けの立派なお産だ。
きちんと下から産まないと子供に愛情が持てないという言説は私は非科学的で酷い誹謗中傷だと思っている。
しかし、全身麻酔で朦朧とする意識の中「可愛い男の子ですよー」と看護師さんにぬるぬるとした体液に塗れた息子の手を頬に押し付けられた瞬間、私は息子を可愛いと思うことが出来なかった。
手術は昼の十三時半頃、計画帝王切開だった。
手術は真夏、前日の夜から絶食はともかく、水分補給が一切出来ないのはとても辛かった。
出産の痛みは忘れると言うけれど、麻酔が切れて目が覚めた夜九時の痛みと苦しさを私九年経った今でも鮮明に覚えている。
「……水をください」
と訴えると、付き添ってくださっていた看護師さんは「ごめんなさいね、朝の六時まであげられない決まりの」と言ってガーゼに水を含ませたものをくれた。
喉が渇いて、痛くて痛くて、血栓防止につけられている足の器具はとにかく不快だった。
昼間麻酔でずっと眠っていたせいで、私は翌朝六時までほとんど一睡も出来なかった。
出されたものは白湯だった気がするが、あれほど喉が渇いていたのに半分飲むのがやっとで、看護師さんに「飲んでください」と叱られ、随分苦労して無理矢理飲み込んだ。
切られたばかりの腹の傷が痛くて、体を起こすのが辛く、何かを飲みこむどころではなかったのだ。
産院によって色々な方針があるようだが、私が息子を産んだ産院は子を産んだ翌々日から歩行訓練を始める所だった。
食事の度に身体を起こすのすら辛いのに、立って歩くのなんて冗談だろうと思ったけれど、看護師さんに「○○病院なんて翌日なんて立って歩かさせるんですよ。自分で立って歩いて赤ちゃんに会いに行ってください」と言われ、私は長い絶対安静で弱った筋力と、傷口の激しい痛みによろめきながら息子が寝かされている保育器のある部屋を見に行った。
麻酔で意識が朦朧としていた時をノーカウントとすれば、私は息子と初対面だったわけだが私の感想は「痛い……早く横になりたい……」で、息子をじっくり見るどころではなかった。
子供の姿を見れば、私にも母性が芽生えると思っていた。しかし現実は違った。
痛くて痛くてそれどころではないのだ。
看護師さんが背後に立って見守っていたので「……小さいですね」と言うのがやっとだった。
その日から母子同室が始まった。
息子はほとんど眠らず、とにかくよく泣く子だった。横になる暇もなく、ひたすら息子を抱き、不格好に揺れてみたがオムツを替えてもあやしても息子はなきやまなかった。
後に息子はこう語っている。
「夜、電気消されるのが怖かった。明るいのが良かった」
私は母乳が出なかった。
しかし、息子が哺乳瓶の粉ミルクを手で押しのけて拒否して何が何でも飲まなかった為、私は何があっても母乳を出さざるを得ない状況に追い込まれた。
助産師さんによる母乳マッサージを受けたが、これがまた激痛だった。
私が思わず「痛い痛い痛い!」と悲鳴を上げると院長夫人の助産師さんは「こんなので痛いなんて言ってんじゃないの!」と私を厳しく叱責した。
しかし、痛いものは痛い。痛いんだから痛い。
泣きながら母乳マッサージを受けた甲斐があり、その日から私の母乳は出るようになった。
すぐに乳が張り、夜中には痛みを覚え、看護師さんを呼ぶと「あら、良かったわねー!」と笑顔で搾乳された。そうして息子は栄養たっぷりの初乳を呑み、私は世が世なら、乳母として天下をとれるような量の母乳が出るようになった。
母乳が出るようになったからには直接授乳をするようになるわけだが、母親が授乳するのが初めてなら赤ちゃんも授乳されるのは初めてなのだ。
痛い。乳首ちぎれるほど痛い。
しかし、息子は母乳ならよく飲んでくれたのでこのままハンガーストライキを続けて息子が餓死してしまったらどうしようと心配していた私はほっと胸をなで下ろした。
そしてこれは長く続く搾乳との戦いの始まりだった。敏腕院長夫人助産師様のおかげで母乳は出るようになったが、出過ぎたのだ。
息子が飲んでくれる分だけでは乳が張って痛くて痛くて母乳が漏れて母乳パッドはすぐにびしょぬれになり、AAカップだった私はなんだか四角いシルエットのDカップ(Eカップかもしれない)になった。
常に泣き叫び抱っこをせがむ息子。頻繁な授乳。その合間の搾乳。不慣れなオムツ替え。何度おしっこを浴びせられたか記憶にない。
息子を抱き上げる為に帝王切開を傷の痛みに悶え苦しみながら、ベビーベッドの柵捕まって何とか立ち上がる。
これが辛い。とにかく辛い。
寝ていても身体を起こしても座っていても痛かったけれど、立ち上がる時は本当に辛かった。
私は幸いにもとにかく母乳の出が良かったが、息子は母乳を吸うのが下手くそで、あっという間に両乳首がズタズタになった。
まとめて眠る時間も充分に休養をとる暇もなく、それでも息子は容赦なく「おっぱい飲みたい!」「入眠手伝って欲しい!」「抱っこしてほしい!」「オムツ替えてほしい!」「なんか不快!」「眠たいけど眠るの怖い!」と四六時中泣いている。
育児、辛すぎる。
こんなにしんどいと思わなかった。
夫も父も母も姉も祖父母も息子を可愛い可愛いとちやほやしていたが、私は正直それどころではなく、とにかくまとまった時間眠り、腹部の傷の回復に専念したかった。
母性?母性って何?
母は強し?そんなのクソ喰らえだと思った。
しかし、息子は親の欲目を抜きにしてもとても整った顔をしていて美しい赤ん坊だった。
その為、客観的事実として「綺麗な赤ん坊だな」と思うことはあったが、所謂母性本能的なものが湧き上がってきて「可愛い!!」と思うことはなかった。
痛くて辛くて本当にそれどころではなかったのだ。
私は初産なのでよく分からないが、周りの経産婦達の声を聞く限りでは息子は育てにくい部類赤ん坊だった。
とにかく四六時中泣いていてあれも嫌これも嫌と、すぐに癇癪を起こし、夜は一時間まとめて寝てくれれば良い方だった。
オムツ替え濡れていないかチェックして、三十分かけて授乳。一時間かけて寝かしつけ。三十分横になるとまた息子が泣く。
夜はその繰り返しだった。
教師をしている夫は朝は早朝に家を出て深夜に帰ってきて、土日は部活。
所謂ハードなワンオペ育児だった。
「俺は寝てないんだからちょっと泣き止ませてくれない?」
「でも昼間は息子と一緒にお昼寝してるんだよね?」
「もうほんと勘弁して。俺疲れてるんだ」
あの頃夫に言われた言葉は今でもはっきり覚えており、私は事ある毎に蒸し返し夫は「まだ言ってるの?ごめんってば」と反省の態度を見せているが、多分あの時の夫の言葉と表情は一生忘れないと思う。
一日中泣き止まない息子の泣き声に頭がおかしくなりそうになり、仕事中の夫にLINEで助けを求めたことがあった。
すると夫は「あのね、俺は仕事してるの。俺に何をしろって言うの?こういうのやめてくれる?」と私を冷たく突き放した。
それ以来、私は夫に頼ろうとするのやめた。
きっと一生恨むと思う。
そんなわけで、私は車の免許を持っていない為通院等の度に実母の手を時々借りながらもほぼほぼ一人で息子を育てた。
我ながらよくやったと思う。
一歳半検診で息子が引っかかり、発達障害の疑いを指摘されたのはそんな頃だった。
発達障害グレーゾーン編
自分の子が発達障害だと言われると受け入れられない親御さんが多いと聞くが、私は全くそんなことはなかった。
むしろ息子の今までの育てにくさ、苦労や困難が医学的に証明され、お墨付きを貰ったような気分になり、やたら開放的な気分になったのをよく覚えている。
息子が自閉スペクトラム症であると診断をされたのは、正確にはその疑いがかなり強いと医師から告げられたのは三歳くらいの頃だったような気がする。
一歳半検診で積み木や指差しをしようにも部屋中を走り回り、そもそも椅子に座っていられず、言葉もほとんど出ていない状態だった為、私と息子は月に数回保健師さんに勧められるがままに発達がゆっくりな子供向けのセミナーと、カウンセラーさんに遊んでいる子供の状態を見てもらいながら日頃の悩みを聞いて頂くカウンセリングに通っていた。
しかし、息子は出かける度に身体を仰け反らせて大暴れをして自転車に乗せたり、抱っこ紐に括り付けるのも一苦労、お遊戯も手遊びもろくに出来ず走り回って癇癪を起こしてばかりで、それでもいざお開き、お片付けの時間にとなると泣いて地団駄を踏む息子をそこに連れていくのは連れていくだけで私の心と身体をすり減らしていった。
息子は酷い偏食で、ふりかけご飯を小さく丸めたもの、うどん、シャウエッセン、プチトマト、納豆以外何にも食べなかった。
買い物に行くのも公園に連れていくのも本当に大変だった。お菓子売り場で「ほしい!ほしい!」と全自動回転モップになったり「ふーしぇん!」とお店の飾りの風船の前から動かなくなったり「階段!」と階段を上がったり降りたりを三十分以上繰り返したりと、息子との外出は困難を極めた。
周りからの刺すような「躾のできないバカ親」「うちの子は絶対あんなことしなかった」「これだから最近の若い母親は……」という視線から逃げるように結局何にも買えずに家に逃げ帰ることも多かった。
そんな中、月に数回支援センターに相談会にいらしていた女医さんに「この子はね、自閉スペクトラム症の可能性がかなり高いよ。本当に育てにくかったでしょ。買い物とかどうしてる?ちゃんと寝られてる?ここまで育てるの、本当に大変だったでしょう」と言われた時、私は本当に嬉しくて今までの苦しみが肯定されたような気持ちになり「大変でした。本当に」と言った私の声はみっともなく震え、涙を含んでいた。
うまく表現は出来ないし、もしかしたら同じ境遇のお母様方からは顰蹙を買うかもしれないけれど、息子が発達障害だと言われた瞬間、私は誰でも当たり前に出来る育児が出来ないダメな母親から、難しい子を丸腰の体当たりで育てている健気で勇敢な母親になれたような気がしたのである。
「この子はとても賢い子。将来は昆虫博士とかお魚博士とか、とにかく何か突き詰めて研究して極めていくようになると思う。だから興味を持つものはなんでも与えてあげてね」
私は先生が仰った通りに息子が興味を持つものを片っ端から与えてた。
息子は乾いたスポンジのように知識を吸収し、女医さんが仰る通りになった。
断っておくが、私は発達障害だということが息子の人生において免罪符になると思ったわけでは決してない。
集団生活を送る上で周囲の配慮や理解が必要になり、本人からの援助要求スキルが必要な場面もあるだろうけれど、周囲への気遣いの仕方は失敗しながら場数踏んで覚えてくしかないだろうと思った。
しかし、それまで「この子の癇癪どうにかなないの?」「もう二歳なんだからちゃんとしつけないと……」とやんわり苦言を呈してきた親族達を「この子は発達障害なので発達がゆっくりで伝え方も伝わり方も違うの。だからもう少し長い目で見てあげて」と堂々と伝えることができた。これは私の精神衛生上とても素晴らしい出来事だった。
それから息子は紆余曲折を経て、三人の発達障害グレーゾーンの子供達に対して加配の保育士が一人つくサポート保育というシステムを利用して保育園に通うことになった。
息子は言葉が出てくるのが遅く、まともに喋り始めたのは保育園に通い始めた四歳半の頃だった。
「ねんね!」「イヤ!」「ママ!」しか喋らなかった息子が日本語をべらべら喋り始めたのは画期的な出来事だった。
子供と言葉で意思疎通が出来るというのはとても素晴らしいことだった。
話せば分かる。
話せば分かるのだ。
言葉が話せるようになると、息子は色々なことを話してくれるようになった。
「早くでたーい!ってドコドコドコドコッ!っていっぱい下の方蹴ってたの!」
「そっか、だから息子くんは逆子になっちゃってね子宮頚管って所が短くなって切迫早産っていうのになっちゃって息子くん産むまでずーっと寝たきりだったんだよ」
「えー!そうなの?僕のせい?」
「誰のせいでもないよ」
「あとね夜、電気消されるのが怖かった。明るいのが良かった」
「えー、そうだったの?良かれと思って暗くしてたんだけど明るい方が良かったのかー」
「あとね、まだいっぱい遊びたいのに寝るのが嫌なの。寝るのつまんない」
「うーん。なるほどね。でも夜いっぱい寝て、朝起きたらまたいっぱい遊べばいいと思わない?」
「あっ、そっか!」
「うんうん」
「あとね。寝る時にふっと意識が無くなるのが怖いの」
「へー!でもお母さんが傍にいるから大丈夫だよ?」
「本当?」
「うん!」
言葉の遅れを取り戻す為に、とにかく一方的にでもいいから息子に言葉のシャワーを浴びせるようにと保健師さんから言われていた私にとって、息子との会話は楽しかった。
そう、最初は。
それから息子は四年間のブランクを取り戻すかのように四六時中マシンガントークをするようになった。
もう、ひっきりなし、のべつまくなし、一日中である。これが、とにかく、とんでもなくしんどかったのである。
嬉しい反面、新たな悩みが出来た私は保健師さんの勧めでペアレントトレーニングに通うことにした。
ペアレントトレーニングの内容は私には興味深く、目から鱗の連続だった。
ハードルを下げ褒める回数を増やす。
例えばお菓子売り場で癇癪を起こさずにいられたらお菓子を買ってあげて「とっても偉かったね!」と褒め倒す。癇癪を起こさない方が得をするという成功体験をさせ、刷り込みをするのだ。
そしてこれはなかなか難しいけれど、環境を整える。
風船がある場所や階段が目につく場所にはそもそも近付かない。行かない。
分かりやすい指示の出し方。
指示は短い言葉でわかりやすく。これはワーキングメモリの関係だ。
児童発達心理学の先生の説明はいつも丁寧で、毎回講義とグループワークが中心だった。
そしてペアレントトレーニングで学んだことを家庭で実践し、そして次回の講義でその感想や上手く行かなかった点をグループで共有するというサイクルでプログラムは進んだ。
悩みの全てが解決したわけでは当然ないが、私にはペアレントトレーニングが向いていたというか、とても為になり、日々の生活がとても整理され快適になった。
しかし、ペアレントトレーニングは万能では無い。
私も手を尽くしたが息子がは保育園でやらかしまくった。
息子は幸い他害をするタイプでは無かったが、教室になかなか入れず、保育園中を探検し、全ての部屋を見回って納得すると、ようやく教室に入ることが出来るようになった。そこまで一ヶ月近くかかったらしい。
切り替えが上手く行かず、まだこれで遊ぶ!イヤっ!と泣き叫んだり、友達とオモチャの取り合いで揉めたりすることもよくあった。
オムツが取れたのも年中の中頃だった。
授業参観、運動会でははしゃぎ過ぎて周りと同じ行動が出来ず、いつも公開処刑だった。
私はそれでも頑張った。
毎日必死で息子と向き合い、カウンセリングやペアレントトレーニングにも通ったし、発達障害関連の本も何十冊も読んた。
そんな私を見て周りは口を揃えてこう言った。
「母は強しだねぇ~」
私はその度に思った。
私は、こうしないとどうにもならないから、他に道がないから必死で頑張ってるだけで別に立派でも特別でもない。
私はただ、目を離したら一瞬で死にに行く生き物を養育者としての義務感で守っていかなくてはいけないと、毎日自分を必死ですり減らしているだけだ。
母は強しなんて、母性本能なんてクソ喰らえだ。
眠いって辛い編
さて、現在息子は九歳と六ヶ月なのだが、正式に自閉スペクトラム症と診断されたのは八歳と十一ヶ月の頃だった。
それまでの私と息子の日々は筆舌に尽くし難く、ぶっちゃけあまり記憶がなく、私はカウンセラーさんに話したい内容をメモしていたノートを見ながらこのエッセイを書いている。
専門家ではないので分からないが、恐らく睡眠をまともにとっていないので記憶が定着していないのだと思う。
息子は夜泣きと言っていいのか、夜驚症というべきなのか、とにかく夜中のギャン泣きが長く続き、ようやく朝までぐっすり眠れるようになったのは七歳になった頃だった。
それまでの細切れ睡眠、常に泣き声で起こされる日々の辛さは正直あまり思い出したくもない。
よく子供の寝顔は天使だなんて言うが、私にはいつ爆発するか分からない時限爆弾にしかみえず、起きていても目が離せずマシンガントークと叫び声に悩まされ、眠っていてもあと何分寝てくれるんだろうと虚ろな目で健やかな寝顔を眺めた。
あの頃の私は常に眠く、意識が朦朧としている状態だった。
日中一瞬でも目を離せば自ら死にに行く息子と細切れにしか眠れない日々、今横になっても寝入った頃に起こされるかもしれないと思った私はいっそ寝ないで置こうという滅茶苦茶な理論へ到達し、しっかり不眠症をこじらせ、思いっきり鬱病になった。
寝たい。
泣き声で起こされるのが嫌。
寝るのが怖い。
眠い眠い眠い。
どうして泣くの。
どうして朝まで寝てくれないの。
どうして、どうして、どうして。
お陰様で鬱病歴七年である。
眠れない、好きな時に眠れない、寝入っている時に問答無用で起こされるいうのは本当に辛いのである。
今は時々添い寝を要求されるものの、まとまって朝まで眠ってくれる為、睡眠導入剤や睡眠剤をしこたま飲んではいるものの、私の不眠症は落ち着いている。
鬱病歴七年でこう言うのもなんだが、色々あるけれど私は元気です。なのである。
ベッドに入り朝まで誰にも起こされずに眠れさえすれば、結構なんとかなる。
それくらい睡眠というのは大事なのだ。
息子が九歳になり、少し目を離しても大丈夫になったので、私は息子がテレビを見たりゲームをしている時に、息子が産まれてからの睡眠不足を取り戻すかのように、とにかく隙あらば寝る。
お母さん大好きでテレビも一緒に見たいし、ゲームをしている自分を見ていてほしい息子は不服そうだが、申し訳ないが知ったことでは無い。
こちらには七年分の睡眠負債があるのだ。
睡眠、最高。
私は貴方が分からない編
自閉スペクトラム症の代表的な症状に相手の気持ちを察したり、顔色を読むのが苦手というものがあるが、幼い頃の息子はその傾向がとても強かった。
そもそも子供に空気を読め、というのは酷な話だと思うが、インフルエンザで高熱で寝込んでいる私に対して何度「お母さん今お熱があるからお休みさせてくれる?」と説明し続けても「遊ぼう!なんで寝てるの?起きて!」と言い続けたり、泣きながら怒ってる私と視線を合わせず歌ったり踊ったり笑ったり自由の限りを尽くされると、バッキンバッキンこちら側の心が折れるのだ。
辛い。これが辛い。本当に辛い。
話が通じない、息子が何を考えているのか分からないというのは本当にしんどいのだ。
息子は私が本気で怒った直後に鼻歌交じりに歌いながらテレビを見たがったりオモチャで遊び始める子だった。
嘘でもいいから、ふりでもいいからしゅんとしてしおらしくしてほしかった。
怒られた後は静かに反省する。
息子がそれが出来るようになったのは九歳になった頃だった。
私にはペアレントトレーニングでお世話になっている先生が仰っていた言葉で印象に残っている言葉がある。
「優しさは教えることはできない。でも優しい“行動”は教えることが出来る」
私はその言葉を胸にひとつひとつ、プログラミングをするように息子にその場面に相応しいとされる行動を教えて行った。
相手が病気の時や疲れている時は一方的に話しかけ続けてはいけない。
相手が泣いている時は自分の用件を話すのではなく、まずどうして泣いているの?と相手の話を聞く。
叱られた後はへらへらしてはいけない。
同じ話を何度もしない(二回まで)
相手が興味を持っていないのに一方的に自分が好きなジャンルの話をし続けてはいけない。
家の中に声の物差しや手作りの視覚支援の掲示物も取り入れた。
私はとにかく必死だった。
毎日を乗り越えるのに、やり過ごすのに必死だった。
そんな私を「お母さん本当に頑張っていますね」と周りは賞賛したが、私は自分は母親に向いていないと思っていた。今もそう思っている。
もし子育てがこんなに大変だと知っていたら、もしも時間が戻るなら絶対に産まなかったと思う。
願わくば、誰か代わりに育てて欲しい。
でも、こんな育てにくい子を私以外の誰が育ててくれるだろう。
疲れた。もう疲れた。
こんな暮らし、いつまで続くんのだろう。
いっそ、無理心中してしまおうか。
でも疲れ切っているのは私だけで、この子は人間が好きで、世界を愛し、愛されているのにそんなの身勝手じゃないか。
毎日、毎日考えた。
テレビをつけた時に我が子を手にかけてしまった母親のニュースを見ると、私はいつも明日は我が身だと思う。
私も彼女と、同じことをしたかもしれない。
私があちら側にいかずにいられているのはたまたま、本当にたまたまなのだ。
小学校入学編
不安でいっぱいの入学式。
園での様子やWISCの結果等を考慮し、息子は普通級へ通うことになった。
明るく人懐っこく人が大好きな息子は多少落ち着きがなく、担任の先生の手を煩わせはしたものの、持ち前の愛嬌で友達をたくさん作り、クラスで愛されキャラとしてのポジションを確立した。
小学校といえば通学班登校だ。
今までは毎日保育園に送り迎えして来たけれど、これからは「行ってらっしゃーい!」「おかえりー!」と家で送り出し、迎え入れるだけでいい。
そう思っていた。
しかし、結論から言うと、息子は二週間目で通学班登校を離脱し、私が送り迎えをすることになった。
朝は隊列を組んで歩くことが出来ず(側溝の上に乗ったり、たんぽぽの綿毛や蝶々を追いかける)スクールガードのお爺さんに「ちょっと困りますので家でもよく言って聞かせてください」と言われたが、家で言って聞かせてなんともならないのが自閉スペクトラム症だ。
このスクールガードのお爺さんはとても良い方で息子が好きな国旗の話をして息子の興味を引いて学校までもたせたりと色々対策を考えて下さり、とてもありがたかったのだけれど、いちスクールガードのボランティアさんにそこまでさせて良いものかと私は悩んだ。
「国旗が好きなんだね。国旗しりとりしたらいい子で歩いてたよ。賢い子だね」
私は嬉しいよりも何よりも申し訳なくなってしまった。
そんな時だった。下校時に事件が起こったのは。
同じ地区で同じ方向の子供達と一緒に集団下校していた子供達が息子を突き飛ばしたりランドセルを叩いたりと「ばーか!」と悪口を言われたりしていると息子から報告を受けたのだ。
私はすぐさま学校に連絡をとり、担任に話をしたのだが、担任は事態を甘く見ていたようで加害少年にしらばっくれられて言質がとれず、息子との問題を解決させぬままそのまま下校させてしまったのだ。
毎日続く罵声と暴力に腹を据えかねた息子が加害少年を突き飛ばしてしまったのはその日のことだった。
そして悪いことに見守りボランティアをしていたPTAのお母様方は息子が寄って集っていじめられめいた所は見ておらず、息子が加害少年を突き飛ばした所だけを目撃し、私に「こんにちは。横断歩道のところが心配でまだ何人かのお母さんで迎えに行ってるんですが、息子くんが、同じ帰りのお友達のランドセルを叩いたり引っ張ったりを何回もしてまして、今日横断歩道でお友達のランドセルを引っ張りその子が転倒してしまいこれは、危険という話しになりまして、連絡しました。お時間ありましたら、帰りの時間見にきていただけるとありがたいです。
よろしくお願いします 」とLINEが送られてきたのだ。
私の人生であの時ほど、悔しかったことは多分ない。
先に手を出されていたのは息子の方なのに(他にも目撃情報があった)全部なかったことにされたのだ。
私はすぐさまLINEを送ってきたお母さんにLINE通話をして謝罪と詳細を確認し、翌日何人かのお母さんが集まっているのだという横断歩道に行って見守りと謝罪をする旨をお伝えした。
そして学校に電話をして事情を話し、加害少年(被害少年でもある)の連絡先を聞き、息子が加害少年に暴力や罵声を浴びせられていたことには一切触れず「本当に申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?治療費を払わせてください」と申し出た。
しかし相手はあっけらかんと「いやいや全然怪我とかないし大丈夫!絶対うちの子がなんかやったんだと思うし、ただ、横断歩道とかはやめてほしいかなー」と笑ってた。
私はもし可能であればと加害少年に電話を代わって貰い「本当にごめんなさい。痛かったし怖かったでしょう。しっかり叱っておいたから二度とさせないので本当にごめんなさい」と本人に謝罪をし、当人同士でも「ごめんね」「いいよー」を形だけさせることに成功した。
私が泣きながらLINE通話を切ると、息子が言った。
「どうして○○くんが先に僕に酷い事をしたのに僕は謝って貰えなかったの?」
私は息子に言って聞かせた。
どんなに叩かれても悪口を言われても、暴力でやり返しちゃったらこちらの負けなの。だからもう二度と、お友達に暴力を振るわないで。
息子は「ごめんなさい、お母さん。僕、もう絶対しないから」と泣きながら謝った。
そして次の日、私はたくさんのお母さんがたむろしている問題の信号へ行き、ひとりひとりのお母さんに向かってしっかりと目を見て「私が至らないばかりに息子がご迷惑とご心配をおかけして本当に申し訳ありませんでした」と謝罪をして回った。
ほとんどのお母さんが「いいえ~」とあっさりした反応だったが、「いや別にうちの子がされたわけじゃないからいいですよ」と目も合わせずに嫌味っぽく言う人もいた。
私が朝夕片道二十五分、小学校の登下校の送り迎えをすることを決意したのはその時だった。
過酷!朝夕片道二十五分送り迎え編
私が息子の送り迎えを決意したのは四月の入学式から二週間後のことだった。
朝の通学班登校と集団学年下校での隊列で罵倒され小突かれることから開放された息子はとびきりの笑顔でのびのびと登下校するようになった。
「お母さん、見て!たんぽぽ!あっ、蝶々だ!モンシロチョウかなぁ?」
たんぽぽの綿毛が見つける度に綿毛を飛ばし、蝶々を見つける度に追いかけてじっくりと観察するので登下校には普通以上に時間がかかった。
私はそれに根気強く付き合い、雨の日も風の日も片道二十五分、往復五十分、頑張って歩いた。
保育園は片道十分ほどだったので小学校は大人の私でもかなり遠く感じたし、息子は「学校遠い……疲れた」と途中でバテてしまうことが多かった。
春はまだ良かった。
日差しは暖かく、風は心地よく、草花も美しかった。
しかし、夏が来たのだ。
私の住んでいる地域の夏は平均気温は三十五度を超え、調子が良いとゆうに四十度を超える。
暑い。暑すぎるのだ。
夏は死の季節。
春夏秋冬、ではなくて春死秋冬なのだ。
小学校からもポカリスエットを持ってきてもいいと許可が出た為、私も息子も水筒にポカリスエットを入れ、熱中症対策を万全にして登下校に挑んだが、夏の登下校は正に命懸けだった。
息子は帽子を被り、私は日傘を差して、二人で茹でたこのようになりながら頑張った。
息子は通学班で登校している子供達を見ると挙動不審になり、私に送迎されていることを恥ずかしがるような素振りを見せた為、通学時間をほんの少し後ろにズラし、通学路を少し変えた。
息子は体力のある子なので軽い夏バテをしながらも何とか大丈夫だったが、私はガッツリ熱中症になり、救急車こそ呼ばなかったが何度も何度も危険な状態になった。
夏は長かった。体感、ではなく本当に長かった。五月から十月くらいまで暑かった。
長い長い夏を乗り越えると、日差しは穏やかに、風も爽やかになり、秋が来ると少し過ごしやすくなった。
そして短い秋が終わると、厳しい冬がやって来た。
暑い夏の盛りにはあれだけ待ち焦がれた冬はとてつもなく辛かった。
暑いのも堪えたが、寒いのは本当にキツかった。
寒いのは着込めば大丈夫だから早く冬になればいいのに!と思っていたのは浅はかだった。
寒い寒い寒い。
寒い。耳ちぎれるほど寒い。
夏の辛さは生命の危機を感じる暑さだったが、冬の寒さは生きる気力そのものを奪う寒さだった。
息子は通学班で登校している子供達を見ると挙動不審になったが、私は通学班で登校している子供達を見ると「あーーーー、いいなぁ~~~~」と思った。
「行ってらっしゃーい!」「おかえりー!」と家で送り出し、迎え入れるだけでいい普通のお母さん達が心の底から羨ましかった。
でも、仕方がないのだ。
息子は、そういう子なのだ。
私が送り迎えさえすれば息子が学校に行けるならそれでいい。私が頑張りさえすれば、それで、それでいいのだと思っていた。
一年生の一年間は大きなトラブルもなく、平和に過ぎた。
そして二年生になってすぐ、息子は学校に行けなくなった。
一年間に渡る不登校編、開幕である。
不登校編
二年になってすぐ、正確に言うと五月の連休明けに息子は完全に不登校になった。
理由は簡単にざっくり説明してしまうと、一年生の担任からの引き継ぎ不足と二年生の担任との不適切な指導と相性の不一致だ。
この件に関しては学校と和解するまで十ヶ月近くを要し、一応和解しているので具体的な内容に関しては触れないこととするが、とにかく担任の指導に問題があり担任への不信感を募らせた息子は学校へ行けなくなった。
学校の校舎にすら入れなくなり、小学生を見るだけで怯え、戦争が起きるミサイルが飛んでくると泣いてパニックを起こし、睡眠障害も酷くなった。
私たちは夫婦で話し合い、息子に一年間学校を休ませ、家庭学習をさせることにした。
家庭学習、といっても私が息子に何かしたわけではない。
息子は勉強が得意な子で、三年生の問題集を買い与えると私が何も言わずとも自主的な勉強をしてくれた。
小学校入学直前から通っている児童発達支援個別学習塾の先生も「学力には何の問題ないので今は精神面のケアをしてあげましょうね」と仰って下さった。
その精神的なケア、というのが本当に難しかった。
頻繁に泣いてパニックを起こす息子を宥めるのは私自身も精神的にキツく、とてつもなく辛かった。
私は市の教育相談室でのカウンセリングに通い、学校とトラブル解決に向けてその都度アドバイスを頂きながら息子と向き合っていた。
動物園。
植物園。
水族館。
科学館。
プラネタリウム。
ショッピングモール。
私は長い長い休みを利用して色々な所へ遊びに行った。息子は中でも水族館がお気に入りだった。
家にいると息子は少しだけ元気がなかったが、外に連れ出すと笑顔で元気いっぱいになった。
私は実母の手を借りながらも、体力とお金の許す限り息子を外へとつれだした。
息子は「今しか出来ないことだね!」と何度も言っていた。
水面下では三年生からの学校復帰に向けてたくさんの大人達が動いてはいたが、私も夫も息子に対してそんな素振りはおくびにも出さなかった。
日頃仕事に忙しく、早朝から深夜まで働いている教師の夫も学校との話し合いには矢面に立ってくれ、何となく上手いこと話をまとめてくれて、これから一緒に頑張って行きましょうという形で色々有耶無耶にして良い感じにカタをつけてくれた。
しかし、新学期が近づくにつれて息子は案の定情緒不安定になった。
学校行くの怖い。
また嫌な先生だったらどうしよう。
また意地悪な子がいたらどうしよう。
と言って声を震わせながら大粒の涙を流した。
新学期に向けて、教育研究室のカウンセラーさんとスクールソーシャルワーカーさんと学校と連携をとりながら息子がまず校舎に入れるようにと、様々な作戦が立てられ、失敗したり成功したりを繰り返し、三月になる頃には学校の図書館や保健室には何とか出入りできるようになった。
これは偉大なる一歩だった。
そして三年生の始業式当日、息子は見事登校することに成功し、問題のある指導をした担任と話し合いの席で威圧的な態度で問題発言を繰り返した教頭は他の学校に異動した。
息子を職員玄関に現れた瞬間「あぁ!来てくれた!良かった!本当に良かった!」と飛び跳ねて喜んで下さった教務さんと校務さんの姿を私は一生忘れないと思う。
三年生学校復帰
不登校からの復帰!めでたしめでたし!
とは、ならなかったのである。
体感不登校の一年よりも辛い一年だった。
四月はとにかく激動だった。
・授業中、隣の席の男の子から黒板の先生の答えを写すべき所を自分で解いていたら「先生の答えを写すんだよ!」と指摘され、パニックを起こして教室から飛び出す。
ややしてから自分で戻ってきて席について気持ちを立て直すことができたが、後で本人の気持ちを確認した所、書き写すのはズルだと思ったらしい。
・休み時間中、息子の眼鏡を取り上げる意地悪が流行る(個人的に叱ったりするのではなく、眼鏡は大事なものだと指導してもらい、先生のパトロールを増やしてもらう)
・宿題の漢字ノートの書き取りを綺麗に書くことにこだわり過ぎて二時間以上かけてしまい、疲れ果ててしまう(間もなく産休に入る先生の提案て鉛筆にグリップをつけることで四十分までタイムを短縮)
・ぞうきんを洗う列を悪気なく順番抜かししてしまい、かなりきつい口調で怒鳴られパニックになり号泣。
怒鳴った子は素早く逃走し特定不能。
・保育園時代から何かと一方的に暴言暴力が耐えなかった生徒にトイレで会い、突然中指を立てられ「死ねってことだよ」と言われる。
・翌日、よせばいいのに中指生徒に「どうして昨日死ねって言ったの?」と立ち向かい「言ってねーよバーカ!」と否定される。
・同性のクラスメートからプライベートゾーンをタッチされ激しく落ち込む。
・友達からダメなんだよーと注意されるとパニックになり教室を飛び出す。すぐ泣く(自分でクールダウンして席に戻ることは出来る)
・そんな感じだったが、クラスでは好意的に受け入れられており、教師が介入しなくてもクラスメートからのフォローでなってなんとかなっており、本人にもクラスの内外に大勢友達がおり、登校復帰を歓迎されている状態ではあった。
五月も大変だった。
・前日ホウセンカの種をまくよー!と言われ楽しみにしていたが、当日班分けをしてホウセンカだけではなく、オクラやヒマワリ等を数種類種まきすることが発覚(これは息子がちゃんと話を聞いていなかった可能性が大)
息子はオクラ班になってしまったことにショックを受け、パニックになり走り出してしまい自損事故でそこらじゅう擦り傷だらけに……。
保健室には連れて行って貰えたが何故パニックになったかは話すことが出来なかった(家で話を聞いた私がどの班で種を撒いてもホウセンカもひまわりもオクラもみんなのもので、みんなで観察できるから大丈夫だよと説明すると安心したらしく先生には話さなくても良いと言われる)(結局教務の先生に話した所、全体の声掛けが耳に入っていない可能性があるので個別の声掛けが必要と判断。今後充分に注意しますと言われる)
・シンプルに突然いじめっ子に叩かれる。
・鉄のベンチのような所でバランスをとる遊びをしていたら突き落とされる。
・赤い木の実を差し出され「これを食べたら足が速くなるぞ」と鈍足をからかわれる(息子は足が遅い)
・パニック状態で泣いている息子をかなり誇張して馬鹿にした泣き真似をされる。
・体育の着替えの時にパンツ一丁になっていたら「変態!変態!変態!」とからかわれる。
・四月も時々疲れたと言って休んでいたがこの辺りから行き渋りが始まる。
六月は最悪だった。
・いじめっ子に「息子をぶっ殺す会を始めまーす」と言われ、首を絞められる。
痣や外傷になることはなかったが、苦しくて痛かったとのこと。
息子は基本的に他人の敵意が理解できない為「ごめんくらい言ってよ!」と訴えたが無視されたとお迎えに来た私に報告してきた為、若い方の担任の先生と教務さんに報告。
再発防止に務めると共に事実関係を加害少年に確認して調査してくださるとのこと。
・翌日、かなりショックを受けていたのと安全が確認できなかったので欠席(一応その後生徒指導があったが煮えきらない感じで書く価値もないので割愛)
・息子の精神的なショックが心配な為、教育研究室に息子のカウンセリングをお願いしたい旨を連絡。
・学級目標を決めている最中、グループに分かれて決めた目標を発表する試みが行われるがじゃんけんに負けてしまい、心が痛いと訴えて早退(息子は下の学年の子にブランコを代わってあげられるような優しいクラスにしたかったらしいのだが、もうダメだ世界に平和は訪れないんだと絶望)(翌日欠席)
・UNOをしているクラスメートに「いーれーてー!」と言ったら仲間はずれにされていると思い込んで「心が痛い。理由は言いたくない」と言って早退。
私がUNOは途中から入れるゲームじゃないから仲間はずれにされたわけじゃないと思うと言うと、そっかーと安心した様子だった。理由を言わなかったのは言えば友達が意地悪をするなと叱られてしまうと思ったかららしい。
「ちょっと学校行くのストレス溜まってるかも」
・初プール(前年はコロナだった為三年生全員初プール)
「今日は学校いけなさそう」
「やっぱり行く」
「着替えが不安」
「やっぱり不安」
「やっぱり帰ろうかな」
「やっぱり行く」
「プールだけ休む」
「やっぱり帰る」
を数分毎に繰り返し、多分初めてのプールで見通しが立たないのが原因なので教務さんに全体の流れを説明して頂いてそれで帰るかどうか決めようと半ば無理やり学校に連れて行った所、職員玄関に着いた途端大号泣。
先生方にプールの流れを説明して頂いた所、みんな実際にプールに入るのは今日が初めてで男女に分かれて教室で着替えをして、着替えには若い方の担任の先生が付き添ってくれるので大丈夫だよと説明してもそれでも泣き止まず。
帰る、帰らない、見学する、プールに入る、入らないで揉めたけれどみんなが初めてで慣れてない今日にやっちゃった方が良いと思うし、一緒にプールに入るのが無理ならみんなが着替えてる所だけでも見せて貰って、着替えたくなったら一緒にプールに入って、とにかく見通しをつけた方がいいと心を鬼にして先生方に息子をたくした。
電話はいつでも出ます。いつ早退してもいいです。でも着替えの様子だけは絶対見せてくださいとお願いをする。
その後、少しクールダウンが必要な場面もあったけれど、着替えもスムーズに出来て早退もせずに帰宅。
別日に事前に水着に着替えてからお風呂でシャワーで濡らし、服に着替える練習をしてから送り込んでいたので、きちんと準備をして送り出して下さったお母さんのおかげですと言われ、嬉しかった。
・トイレのスリッパの空き待ちをしていたらいじめっ子に「やるよ!片方な!」とスリッパを男子便器に放り込まれる。
人の悪意に鈍感な息子は「おいおいトイレに意地悪するなよ」と思ったらしい。
・6時間授業だったが「疲れちゃった」と言うのでお迎えに行く。
・ドッジボール、いつもすぐ当たっちゃうんだけど今日はみんなが守ってくれたから当たらなかったと話してくれた。一部を除いて人間関係は良好な模様。
・教室でじゃんけんをしているグループを見て楽しそう!と思って参加したらそれが苦手な鬼ごっこのじゃんけんで、やりたくない鬼ごっこをする羽目になり早退。
何のじゃんけんか確認してから参加して欲しい。
・保育園時代から何かと一方的に暴言暴力が耐えなかった生徒に朝一番粘土ベラで目を突き刺す真似をされ、先生に通報。もう怖い、帰りたいと早退。
・暴行事件が立て続いた為、フル充電100%にならず45%くらいまでしか充電できず、ちょっとした傷つきでフラッシュバックが起きてもう帰る……となってしまう。
先生のパトロールを増やしてもらいつつ、無理はさせず適宜早退欠席させて何とか夏休みまでもませましょうと学校と話し合う。
7月も本当にとんでもなかった。
・この辺りで妊婦の先生が産休に入られたのでクラスがしっちゃかめっちゃかになり、単純な連絡ミスや不適切指導やうんざりするようなことが連発するが、キリがないが若い方の担任の落ち度については割愛する。
・いじめっ子に休み時間に「お前の顔みたくない」と顔にぞうきんを投げつけられる。
担任がその場で叱ったが、親への報告はなし。
・二時間目の算数の時間に算数ドリルに夢中になり、22までやればいいのにどうしても26までやりたいと言って聞かず、プールには入らずドリルを解いていたらしい(算数はひとクラスを2つに分けた少人数教室)
気が済んでから「プール入るー!」と言い出すも、今からでは無理だと説明されると「そっか」と納得し、ローマ字の自主練を楽しくしていたらしい。
切り替えが上手くいかなかったのは反省すべき点ではあるが、学校の柔軟な対応には感謝。
・息子からずっと言いにくくて先生にも私にも言えなかったんだけど……と前置きして、一週間くらい前にいじめっ子に嫌なことをされて友達とコラー!と追いかけていたら「息子ちゃんのちんちんはおっきいでちゅね~!」とスティックのりを男性器に見立て、勃起のジェスチャーをされたらしい。
息子は意味は分からなかったけれど酷い侮辱を受けたと感じたと打ち明けられ、週明け学校て対応して貰うことに……。
・個人懇談では可もなく不可もなく……。
離席や不規則発言はほとんどなくなり、何をるにも「~してもいいですか?」と許可をとり、今はダメだよと言われると納得するようになったので今の所若い方の他人を煩わせている様子は無い様子。
あぁ、もう書いていて嫌になってきたのでこの辺りでトラブルを列挙していくのはやめます。
大変でした。
とにかく大変でした。
シンプルに地区の治安が最悪。
クソ!カス!クズ!
さて、ちょっとここいらで明るい話題。
四年生になった息子が出来るようになったことを挙げて行こうと思います。
・給食袋を洗濯カゴに入れる
・水筒を流しに出す
・自分で麦茶をつぐ
・自分で牛乳をつぐ
・自分で爪が切れるようかななる
・お風呂に着替えを持って行って着替えてから出てくる。
素晴らしい!
定型発達の子なら普通のことかもしれない!
でも!違うの!すごいの!すごいことなの!スタンディングオベーションなの!
うちの子天才!
そう思いました。
はい、ここまでが三年生の夏休みまでの記録です。
ご清聴ありがとうございました。
子供に薬を飲ませるのに罪悪感を持つ必要は無いと思う編
さて、眠いって辛い編で息子が正式に自閉スペクトラム症(ASD傾向強めのADHD)と診断されたのは八歳と十一ヶ月の頃だったと書いたが、更に正確に書くと2024年7月31日のことだった。
回りに回って三件目の児童精神科の先生は三時間にも渡る丁寧なカウンセリングと診察の後で、ご自分がかけている眼鏡を外してこう仰った。
「この眼鏡を外したら僕は視覚障害者。自分に合う薬を探すのは自分に合う眼鏡を作るのと同じこと。だから少しずつ息子くんに合う眼鏡をつくっていこうね」
そしてそんな児童精神科には珍しい牧歌的な雰囲気のクリニックに通い始めて八ヶ月。
現在息子はインチュニブ、メラトラベル、ストラテラを飲んでいる。
学校では落ち着いて先生の一斉指示を聞き取れるようになり、教室を飛び出したり、突然泣き出してしまうこともなくなり、非常に安定している。
息子に薬を飲ませるようになる前、私には早く息子に薬を飲ませて自分が楽になりたい反面、自分の都合で、型に嵌めるような形で薬を飲ませるのは果たして本当に〝正しい〟ことなのだろうか?と少しだけ躊躇した。
そして結論から言うと、何が正しいかは私には分からない。
しかし、私が、周りが困っている時、誰より困っていて苦しんでいるのは、恐らく多分他でもない息子自身なのだ。
それを本人に合う度の眼鏡の与えることで集団で上手くすごしていけて成功体験を積んでいけるなら、そんなの良いも悪いもないな。絶対良いにきまっている。
と、私は思う。
こればかりは難しい問題で答えはないというか、各ご家庭の考え方だと思うけれど、あくまで私はそう思う。……と、いう話です。
薬を飲み始めた息子は家では相変わらずマシンガントークで多動で私にべったりですぐに泣くし、家に帰った途端プッツリと電池が切れたようになり眠りこけてしまうこともあるけれど、少なくとも先生方の話をきくかぎり、まるで別人のように話の通りがよくなり、自己を抑制して思慮深く振舞っているそうです。
もしかしたら学校では無理をしていて、家ではその反動がでているのかもしれないけれど、そういった予兆を感じた時は私は迷わず学校を休ませることかにしている。
それで一日好きなことをして充電してまた次の日学校に行けるのならそれで充分だと私は思うからだ。
そんなこんなで、三年生学校復帰編からここまであまり触れて来なかったが、実は息子は週一か週二か程度学校を休むのが当たり前で、いわゆる五月雨登校状態なのだ。
これが完全不登校よりも実は結構キツイ。
前日に「明日は行けなさそう」と申告があるパターンはまだいいが、朝起きてきて忙しなくトイレに駆け込み下痢を繰り返し、青い顔をして「……今日は休む」と言われたり、夕方になり「今日やっぱり行けば良かった」と泣かれるのは精神的にかなり堪えるものがあった。
次の章ではそんな心労が積もり積もって、私の心と身体がエンストしてしまった時の話を書こうと思う。
頑張る、もっと頑張る、はもうやめよう
きっかけは息子の皮膚むしりだった。
それまで私は、週に一、二回休んでも丸一年休んだ去年に比べたら全然いいと思っていた。
それに息子は「今日は行きたくない」と言っても次の日には普通に学校に行って「楽しかったよー!」と笑っていた。
息子には息子のペースがある。
決して無理させずに見守ろう。そう思っていた。
しかし、ある時欠席して登校した次の日の息子の指に血が滲むほどの皮膚むしりがあることに私は気が付いた。
「これ、どうしたの?自分でやったの?」
なるべくやんわりと優しく指摘したつもりだったが「ごめんなさい、ごめんなさい」と息子は大粒の涙を流して私に謝った。
「あのね、謝って欲しいんじゃないの。こうやって自分の体を傷つけることをして欲しくないの。どういう時こういうことやっちゃうの?」
私が震える声で尋ねると、息子は行った。
「学校が、授業が地味でつまんないの。テストの時も待つ時間が長過ぎて退屈。そうすると、ダメって分かっててもやっちゃうの」
そう言われた瞬間、私は息子を学校に行かせるべきではないのではないのかという思いに駆られ、実際息子にも「そんなに辛くて休みたいならしばらく休むといいよ」言った。
しかし息子は「行く!絶対行く!友達にも会いたいし!もう絶対しないから!」
しかし、息子の皮膚むしりはどんどんひどくなっていった。
「明日は行けそう!大丈夫!」
と言っていたのに朝起きてきると忙しなくトイレに駆け込み下痢を繰り返し、青い顔をして「……今日は休む」と言い、夕方になると「今日やっぱり行けば良かった」と泣いた。
私は、私は親として彼にどうしてあげればいいのかわからなくなってしまった。
私の体に異変が起き始めたのはその頃だった。
睡眠薬を飲んでいるのに一時間毎に起きてしまい、早朝覚醒してしまう。
常に息苦しく、息が上手く吸えない。
本が読めない。
ドラマが見れない。
映画が見れない。
趣味が楽しめなくなり、物欲が消し飛んだ。
食欲もなくなり、何も食べられなくなった。
一人でいる時に突然涙がとまらなくなり、子供のようにしゃくりあげてしまうようになった。
もうこの子を私に育てるのは無理だ。
私の手には負えない。
死にたい。
死のう。
死んで楽になりたい。
そんなことばかり考えるようになった。
すっかり心身のバランスを崩した私が隠し撮りした息子の皮膚むしりの写真を夫にLINEすると、夫は帰宅後こう言った。
「俺にどうしろって言うの?俺が子供と関わってないからこうなったって言いたいの?仕事中なんだからああいうの送ってくるのやめてくれないかなぁ?」
夫は何も分かってくれなかった。
私は言った。
「私はただ、私と同じだけとは言わないけど、夫くんと息子の非常事態を共有共感して一緒に心配して欲しかっただけだよ。それなのにどうしてそんなこと言うの?」
私は泣いた。こんなに涙が出るものかと思うほど子供のように声をあげて号泣した。
「もう嫌!もう嫌こんな生活!貴方はいいね!仕事があってそこで評価されて頼りにされて!私は無職で息子君のお母さんってこと以外何も無いのに!居場所がない!苦しい!死にたい!死んで楽になりたい!私が子供産んで失って奪われた分、同じだけ貴方も全部失えばいいんだ!」
すると夫はこういった。
「今の精神科、○○には合ってないと思うから病院変えよう」
そういうことになった。
眠れず、食べれず、涙が勝手に溢れ出し、まともに起き上がれない状態で無理やり家事と送り向かいをこなし、待ちに待った教育研究室のカウンセリングの日、カウンセラーさんに近頃の惨状をぶちまけるとカウンセラーさんは静かな声でこういった。
「○○さん、しばらく、一週間でも二週間でもいいので学校休みましょう。○○さんは限界だし、明らかに息子くんもお母さんが行かないと悲しむからって無理してるし、二人とも無理してて何もいいことないです。これは四年生でいいスタートを切る為にも必要な休養です。休みましょう」
私は迷った。物凄く悩んだ。
しかし、結局夫とも学校とも話し合い、土日も含めて一週間学校を休んだ。
息子は「行くよ!僕行く!」と言い張ったが「お母さん、体調悪くて貴方を送っていけないの」と話すと納得してくれた。
その間に別の精神科に初診に行き「どうしてこんなになるまで放っておいたの」と軽く怒られつつも大量の抗うつ剤と強めの睡眠薬を処方され、夜は眠れるようになり、息が出来るようになり、死にたいほどの倦怠感からは解放された。
元気になるにつれて、私は思った。
江戸時代なら死んでた。
息子が生まれてからというもの、私は「頑張る!ももっと頑張る!無理する!もっと無理する!」で無理矢理目の前の問題を乗り越えてきた。
しかし、私一人が無理して頑張ってなんとかするには限界が来たのだ。
私は決めた。
頑張らない。無理しない。
しっかり休む。
嫌なことは嫌って言う。
そんな当たり前のことが私は出来ていなかったのだ。
一週間休んだ後、息子は無事登校復帰したが、現在は「六時間目がある日は疲れちゃう」と言うので六時間目のある日は五時間目で早退している。
息子はWISCでも平均より高い知能を持ち、テストはほとんど満点。明るく人懐こく友達も多い。
それでも、どうしてもできないこと。
頑張ればできるけどものすごく疲れてしまうこと。
が沢山あるのだ。
私は、私達夫婦は可能な限り必要な環境調整をしてあげたいと思っている。
それが傍目、ただの甘やかしに見えても私は構わない。
それは環境調整というより、合理的配慮で息子に限らず子ども達全員に必要なことなような気もするが、それはまた別の話だ。
息子を育てるのは本当に大変だ。
正直手に余る。
精一杯やっているつもりだけど、正直しんどい。
それなのに、息子くんは○○ちゃんを選んで生まれてきたんだよとか、母は強しなんて言われると正直イラッとする。
私は普通の人間だ。
息子を育てる為に仕事もやめた。という捨てた。
息子を産む前の人生は前世の記憶のように何だがおぼろげだ。
母性本能なんてクソ喰らえ!
でも、息子には私しかいない。
頑張るよ。
これからも。
頑張りすぎず、無理しすぎず、しっかり休んで。
最後に、もう一度だけ言わせて欲しい。
母性本能なんてクソ喰らえだ!
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