日常に祈りをもたらすDX ~非日常の称賛を超えて~
■非日常の体験としての称賛
寺ヨガが各地のお寺で人気を博している。
ヨガインストラクターと住職の橋渡しにも取り組んでいる私にとっては、とても嬉しいことだ。
参加者は、
「非日常的な空間でヨガをすると、リラックスできます」
「心や脳が開放されるようで、癒やされます」
「香り、音、空気感など、五感が刺激されるようです」
――と、一様にその空間がもたらす効果に喜びの声をあげている。
これにケチをつけるつもりはない。
ただ、ちょっと穿った見方をしてみよう。
――お寺は非日常の空間なの?
そう、写経会、宿坊、ヨガ、音楽会など、お寺で取り組まれる集いの感想の多くには、「非日常」であることの良さが盛り込まれる。
そう、お寺は日常でなくなってしまったのだ。
■日常から失われる祈り
新築一軒家を建てる際、仏間を設けるお宅は、いまどのくらいあるのだろう。マンションに移り住む際に、打ち捨てられてしまう仏壇の数は、いかばかりか。毎日、お仏壇に仏飯を備えるなんて光景は、当たり前のものではなくなってしまった。
かつては、毎年のように親族の誰かしらの回忌法要が営まれていたのも、
いまや直接の祖父母・父母の回忌法要だけの参列が当たり前で、
数年から十数年に一度行うという家庭が多数。
無宗教を申告する日本人も、8割以上はお墓参りに行く。
しかしこれも、日常とは言い難い。
いつしか私たちの暮らしの日常から、祈りや信仰は遠ざかり、
檀家ですら、お寺に足を運ぶのは年に片手で足りる程度なんてこともある。
■信仰という世界観に生きる
信仰とは、生きる世界観だ。
お寺に詣でること、仏壇に手を合わせること、故人を偲ぶことは、その一部に過ぎない。
他者と向かい合うこと、食べ物を口にすること、歩くこと、考えること、眠ること……。
そのすべてに一人一人の世界観がある。信仰がある。
わたしは、信仰は日常の世界観と密接にリンクするべきだと考える。
■DXが祈りを日常に引き戻す
日本人の日常の世界観を、仏教などの智慧を生かしていくためには、
仏教などの宗教が人々の日常に、溶け込んでいかなくてはいけない。
いまは日本人が1日にインターネットに接続する時間は、1人平均2時間を超える。
限界費用ゼロが実現するこの時空に、宗教者が存在することは、祈りを日常にするための有力な方途だ。
宗教を無人・自動化させることが宗教界のDXの目的ではない。
人々の日常に、祈りを引き戻すこと。
それが、宗教界のDXの目的だ。
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