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腹鳴恐怖症だった私と吃音症の娘NO.131 娘の誕生日に向けて。

娘は、2010年1月16日に生まれた。
娘の出産予定日は、まだまだ先の3月21日だった。
2ヶ月と少し早く、私の誕生日の10日前なので、まさかの38歳での出産となった。

私は次男を出産した後、喘息持ちだった息子2人の子育てが、そこそこ大変だったというのか、その当時、吸入器を買わずに、小児科まで、吸入だけの為に、片道45分くらいの小児科までの道のりを、3往復もしたこともあった。

まだ、喘息というものも、よく理解していなくて、夜中に、もっと先にある大きな病院に数回、喘息の発作で車を走らせたこともある。

かかりつけの先生は、喘息は、火事と一緒で、火種が小さく、燃え広がる前に消さないと、しばらくは消えないという話を数回聞かされた為、夜中に車を走らせない為に、夜の9時までに、吸入をしに、夕方まで通ったものだ。
夜も吸入させてもらったこともあった。

今は吸入器を買っているので、吸入は家でするが、今の娘はほとんど吸入器を使うことがない。
とは言え、一年に数回は使っているという状態だ。

娘は明日で、12歳、いわゆる、寅年、年女ということになる。

娘は思春期真っ只中、やっと、オンラインゲームは、もう終わったん?と思う短縮の時間になっている。
それが極々一般的な時間なのだろうけど・・・

しかし、その分、勉強をするわけでもなく、ただ、YouTubeやテレビを見ているだけなのだけど。

とにかく、私の人生は、昨年、私のことを理解してくださる先生と出逢っていなければ、私は苦労の星に生まれた、生まれた時から死ぬまで、苦労する人生か、と思っていた。

しかし今は違う。
そりゃ、凹む日もある、だけど、こんな日もある!と肯定できるようになってからは、さほど、落ち込む日はない、というか、そんな大きなことが堂々と言えるレベルではなく、あくまで、訓練している最中という方が、正しい。

理解のある素敵な1人の先生と出逢ったということ以外は、何一つというか、人生に何か特別なことがあったわけでもないし、単なる、時の流れということだけだ。
それだけでも、特別なことは何一つないが、
『人生バラ色』と思える自分がいる。
笑いたい人は笑ってどうぞ、と思っている私である。

娘を出産した時も、気持ちはどん底だった。
何でこんなに早く出てきてしまったのか、私のせいだと思ったからだ。

子供を2人育てるも3人育てるも変わらないと、人から聞いたことがあった。
しかし、2人と3人では全く違う。

それこそ、人の考え方はみんな違うから、1人2人の言うことを聞いて、そうだと思っても、違う場合もあるのだ。

娘が最初、男の子でなくて、女の子だと、妊娠中にわかった時は、なんとも言えない、おそらく、3人目も男の子だろうと思っていたところ、先生から告げられたことは、女の子ですよ、おめでとうございます!良かったですね!だった。

男の子でも恐らくは、嬉しかったけど、女の子だったということに、家族はみんな、それ以上の喜びを感じたのだ。

次男を出産後、色々なことが大変だったからか、自律神経と今ではキッパリ言えるのだけど、血圧も上がった。
完全にその影響で、娘の時は、高齢出産、プラス、血圧が高いので、薬を飲みながらの出産となった。

出産は命がけと言うが、正にその命がけだったと思う。

個人病院から、大学病院へ行き、1日だけ入院。
私は、出産予定日は2ヶ月も先だから、まだまだ、入院して、出産となるのだろうと、呑気なことを考えていた。
しかし、状態が悪かったのだろう。
しかも、大学病院の赤ちゃんのベッドは空いていなかった。
そのため、救急車で、今度は国立病院へと運ばれた。

次の日に出産となるのだが、さあ、帝王切開の手術となった時、何と、緊急オペが入った。
双子の赤ちゃんの命が危なかったのだろう、そちらの手術が先になった。

私は自分の番が来るまで、とても不安になった。
ベテランの看護師さんが来て、赤ちゃんの心音を確認していたが、一瞬、看護師さんの顔が青ざめた。
私も、あら?赤ちゃんの心音が・・・と言う看護師さんの顔を見て、自分も血の気がひいた。

しかし、あったあったと、もう、下がってきていたのか、元々下腹というのがあったが、大丈夫だったようだ。

やっと自分の番が回ってきた時は、まるで、テレビドラマのようだと思っていた。

全身麻酔ではなかったので、とても大きな手術室に、もう、まな板の上の鯉状態で、
先生や、看護師さんの会話が丸聞こえだった。

『今日は満月でもないのに多いよね、これ終わったら、食べとかないと食べる時間ないね』だとか、誰とか先生の娘さんがどうだこうだとか、先生と、看護師さん(ナース)の日常の会話が、娘を取り上げるまで続いた。

お腹は麻酔が効いてるので、とてもお腹の皮を引っ張られた感覚だけが何となく残っているが、娘が、『オギャー、オギャー』と赤ちゃん独特の産ぶ声を上げた時には、ホッと安心したのを覚えている。
後から分かったが、娘は一瞬、仮死状態だった、産ぶ声を上げるまでに少し時間があったようだ。

感動の涙というよりも、時間がかかりすぎたことに、もう疲れ果てたのだ。
この日は、もしかしたら、血圧が高い為に、私はどうなるかわからないと、死というものが頭によぎっていた。
生きていたら嬉しいと思いながら・・・
無事、帝王切開では初めての出産となった。

2ヶ月少し早く出てきた娘は、丁度、モンチッチ人形、メルちゃん人形の実物と同じくらいだった。
1200gと少しという体重しかなかった。
話がまだ続きそうなので、また明日、誕生日当日のnoteにします。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました^ ^







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