肉体 (完全と欠損)
手塚治虫のエロティシズムは生命の根源的なパワーを感じさせる。これが生きているということなんだ!生きているときこれほどのパワーが溢れているんだ!と手塚治虫の訴えがガツンと体全身にぶつけられる。血、それが流れた肉体、その質感、さらに呼吸までもそこにあるかのような感覚がある。
しかし、『奇子』は様子が違っていた。幼少期に地下の土蔵に幽閉され20年間もの間外に出ることを許されなかった奇子は、異様な成熟をとげる。第13章光陰、以下の描写
完全で清潔な肉体がかえって無機体だった、というのである。奇子は生き生きとしていない。だからといって死んでもいない。生き生きとしていないのに、健やかに育ち、生き生きとしていないのに、元気なのである。
余談であるが、そんな奇子が兄・伺朗を誘惑するシーンがあり、このシーンを見たときは有機的か無機的かという点で与謝野晶子のこの短歌と対になっていると思った。与謝野晶子のたぎるような情熱的な恋は言うまでもなく有機的である。
奇子のような完全無欠な肉体が無機的であるならば、欠いた肉体に有機的な生命力を見るか?
私は以前スコパスの『シヌエッサのヴィーナス』のそのエロティックな生命力に動揺したことがあり、思わずスケッチをしてしまった。スケッチをしていて思い出したのは清岡卓行『手の変幻』に収録されている「失われた両腕ーミロのヴィーナス」であった。高校時代の現代文の中で最も好きだった評論の一つである。
手塚治虫が完全無欠の肉体を無機的に描いたのも、私が『シヌエッサのヴィーナス』を見て思わずスケッチしたのも、これで全部説明できる気がした。
しかし運命の協力によって奇子が無機体になってしまうのはあまりにも残酷である。あの作品では誰も救われないのだ。手塚治虫はその救われないありさまを肉体とともに描ききったといってよい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?