価値の見ちゅけかた
『人間は集団を生かすために生きているのではない。独自の知覚が実は発動していることを知りながら、現実を壊さないために押し黙っているのは本末転倒である。』坂口恭平
①オンラインショッピングにおいて、人気のあるものは一瞬で完売する。もしくは抽選とか。
(オフラインでも、長蛇の列に並んだりする。)
②サッカーにおいては、ボールに群がるのではなく、空いているスペースを見つけ、そこに走り込むことが得点チャ(chance)ンスを生む。
(僕はキーパーだったので、走り込まれる側。)
③仕事では、誰もやらないこと、やりたがらないことをやると、重宝がられる。
ヘイ!毎度!
毎度毎度、人気のあるものに飛びつく行為は、ボールに群がる動きは、周りのみんなと同じことをしていればよいという考えは、それは思考停止ではないか。自分で判断していない。
自分で判断したら、失敗するかもしれない。だから、人気のあるものを買えば間違いない。長いものに巻かれていれば安心。強い方の味方につけば安全。
『そこでやっと気が付く。自分のやることなんだから、すべては自分で考えるしかないんだな。
後年、夏目漱石のロンドン留学の話を知った。漱石はロンドンで文学論を勉強しようと思ったらしい。でも講義を聴いても、さっぱり参考にならない。
(中略)
留学の終わりごろになって気づく。文学論は教えてもらうものではない。自分でつくるものだ、と。漱石はそこではじめて自立した。』養老孟司
自ら考えることのできないひとは多数派につく。数の多さや権威に依存し、自分で理論を構築することができない。
別に学問の話ではない。オンラインでの買い物の醍醐味は(もちろん人それぞれだと思うけれど、僕は)、本当は価値があるのに大して注目されていないもの、飽きの来ないデザインなのに早々に安売りされてしまっているもの。ネットサーフィンを繰り返し、そういうものを見つけ出し、救う(そのつもり)という行為が楽しい。
『にぎやかな場所で、かかりつづける音楽に
僕はずっと耳を傾けている』小沢健二
つまり、人気のあるものを競って買うのではなく、誰も見向きもしないものに価値を見出す。その行為は創造といえるのではないか。
多数派に依らず、自分の頭で考えることで、競争を避けることができる。
いまの社会では、決められたレールの上で、早く走ることのできるひと、競争の得意なひとが優位に立てるようになっている。自分は努力して勝ち抜いてきたのだからと、他者にもそれを強要する。社会的弱者を自己責任だと責め、切り捨てる。この考え方は、新自由主義(ネオリベラリズム)と呼ばれる。
なんでも民営化すれば、市場原理により弱者は淘汰され、最適解が得られると考える。その結果、国内の農家は破綻し、水道水は汚れ、一部の企業だけが富を得る。
『政治家というと、演説で自分の意見を一方的に言うイメージが強いですが、それよりも(中略)
弱い立場にある人たちの意見を聞くほうが大事。
自分の地域でみんながどんな悩みを抱えているか、(中略)いろいろな悩みを聞き、それを解決するために具体的な制度に落とし込んでいくのが仕事なわけです。
人の悩みを聞くのが政治家の仕事。』三浦まり
強者の理論で、ものを考えてはいけない。
地べたに這いつくばったとき、物事の本質がみえる。周りからちやほやされていたときには考えもしなかったことに、気づく。
だから私たちは、定期的に弱者になる必要がある。畑違いの仕事に転職すれば、その職場では一番の弱者になれる。言葉の通じない国に旅行すれば、電車の乗り方もわからず、食べ物を注文することすらスマートにできない。
毎日が問題なく、スムーズ過ぎていくのはとてもラクだ。
以前、会社を辞めるときに「この仕事、ラクして稼げるのに、なんで辞めるの?」と聞かれたことがある。
ラクだから辞めるんだよ。成長できないから環境を変えるんだ。環境を変え、自らに負荷をかけることで、はじめて気づくことがある。
自分を変えることは難しい。自分の内側から成長しようとすることは、誰にでもできることじゃない。でも、環境を変えることはカンタンだ。
安心安全な場所に安住し、井の中の蛙になってはいけない。ゲロゲロ、グワァグワァ〜
競争しないこと。それぞれが空いてる方へと歩けば、衝突は減るのではないか。
そのために必要なのは、自分の頭で考えること。
にぎやかな場所で流れている音楽に、気づくことができるか。
マッチョな思考で勝ち負けを繰り返すのではなく、やわらかな知性をもって、軽やかに動くことができるか。
◎最近のてってさん
僕は料理ができないのですが、何故か鉄のフライパンを持っています。先日、胡椒餅を焼いて食べました。味が濃いので、ビールを飲み過ぎました。ハライチのラジオを聴いていました。