仏教のパイセンはマジで豪胆
ぼくがいま興味があり、かつ世界が反転するようなインパクトを与えるテーマがあるとしたら、「『私はなにをクリアしたらここにいていいか』と誰も思うことなくそこにいられるような世界にしたい」、ということだとわかった。
ふと、それはなかなか途方もないなーと思った。
今のところ、これだという解決策は思いついていない。
ただなかなかいいテーマが落ちてきたもんだと思った。
何の条件をクリアしたらそこにいていいか、なんてことは考えたくもない。
でもいまの資本主義社会において、生産性が一定の数値を超える可能性がある人じゃないと雇えない、ということはあるだろうし、実際に僕は採用の現場で面接をしたりして、企業の選定基準に合わせて合否を判定しているのだ。
つまりは、いまこれは詭弁なのだ。
それでもやってみたいと思う。誰もが条件なしにそこにいてもいいと言える、そういう場所にするとしたら、食べ物の心配がいらなくて、寝床の心配がいらなくて、存在することの不安がなく、安心してそこで生きていられる、両親が用意してくれて僕が子供のころに感じてられていたような状態かもしれない。
今はなかなか遠大な目標に思えるけど、僕が好きな仏教の偉人と如来さまにはもっとぶっ飛んだことを言ってのけた存在たちがいる。実在した親鸞パイセンと、逸話のなかに登場される法蔵菩薩パイセンつまり阿弥陀如来さまだ。
非常〜に簡単にいうと、親鸞パイセンは当時の破戒僧そのものであり、
「剃髪もせず、妻帯をして家族を持ち、俗世の中において暮らし、自分で悟りを開けるなどと思わずに、一心に「南無阿弥陀仏」とだけ唱えたら極楽浄土へいって、我々はみんな如来になれるんやで。」
と豪語して、しかも
「自力で悟れるとか驕った考え方をした調子づいた人間でさえも救ってくれるから、自分ではもう悟りに到ることなどできようもないと自覚した悪人など当然ながら救われますやん」
と説いて、まあ〜当時の他宗派からどんだけボコスカに怒られただろうかと想像するに恐ろしい主張である。ものすごーく勉強してからのその結論だからこそ、堂々とその主張をしたんだろうけど、まあ本当にものすごい勇気である。
いやもはや、そこには勇気というものではなく、それしか最後に自分が言葉にできるものはなかったというところまで突き詰めたに違いない。
そういうわけで、なんせ周りが「そんなわけあるか!」とか「そんなんで許されるわけないやろ!」「罰当たりか!そんなんで救われるわけないやろ!」とまあ天罰が下るぞバカタレと、どんだけ偉い人やら未熟な人やら、老いた人から若い人まで非難を受けたり、馬鹿にされたりしたものだろうかと想いを馳せるが、想像だにしないことである。いやはや本当にすごいことである。
さて、その親鸞パイセンが指し示した「阿弥陀仏を頼りにしなさい」という、その阿弥陀仏=阿弥陀如来さまといえば、浄土真宗で言葉にする「南無阿弥陀仏」のその存在そのものである。大切でかつ敬われるべき存在である。
肉体を持った存在であったかは、定かではないし、おそらく実在はしてない。
ただこのブログにも前に書いたことがあるけど、スラムダンクという漫画のキャラクターに憧れて人生の大事な時間をバスケットに費やした人もいるだろうが、まさに創作された存在は肉体を持つ持たないに限らず、その存在に影響力というものが存在することは否定できない。
ワンピースのルフィは実在していないが、ルフィが発した言葉や存在そのものに救われたり、勇気付けられたりした人がいれば、まさにルフィは影響力をもってその人に人生に関わったと言える。それはもはや創作物をこえた存在だ。
この日本の仏教史にとって、阿弥陀如来という創造された如来の存在は大きな大きな意味があると思っている。なぜなら浄土真宗は、日本の仏教の宗派のうちに最も大勢の人に仏教の入り口に立たせる宗派であり、その浄土真宗が頼る如来さまが、阿弥陀如来だからだ。
ふー、前置きが長い。もう少し簡単に書きたいが。
そんな阿弥陀如来は、もともと菩薩であったという設定である。菩薩は如来の前身であると言われ、如来がその存在そのもので悟りを示してくれるような、真理そのものとして合掌して敬われるべき存在であることとすこし違い、悟りを開こうとする人々に寄り添い、並走して勇気づけてくれる存在である。
いろいろと割愛するけれども、要はものすごい昔は修行中やったというわけである。その頃にこういう誓いを立てた。
「私は、そこに往きたいと願った人すべてが仏となって救われる、極楽浄土をつくります。私の名前を口にしたすべての人が、その場所に往けないというのなら、私は如来にはなりません。絶対なりませんからねっっ。」
そういう請願を立てて、お師匠様である世自在王仏という如来さまは、
それは、ちょっとねえ、いや、さすがに、、、ねえ???
と渋ったりしたのだけど、頑として譲らず、それをどうしても成し遂げたいのだという強い気持ちで持ってそれを成し遂げると誓われ、結果的にいま法蔵菩薩は阿弥陀如来になったので、もうすでにその誓いは果たされているんだよという、壮大な物語。すごい理想的やけど、いや、それは。。。って言われてもそれでもやりたいと言い通せるかどうかにかかっているわけだ。
結局は本気が試されるってことや。
どこまで本気でそう思えるかってことや。
「『私はなにをクリアしたらここにいていいか』と誰も思うことなくそこにいられるような世界にしたい」
それをやりたいんやと誓い、それを成し遂げると決めることや。
そうや、それをやる。
そしてパイセンはもっとムチャクチャな理想を言うてる。
それに比べるとまだまだ願いの大きさはちいさいちいさい。
よし。