家がお寺になる「エア寺」
エア寺の構想は、数分だったなと記憶しています。
「お寺あったらいいのになあ。でも維持管理費しんどいらしいし、そもそもそんなもん建てられるわけないしな。」
「いやしかし、そもそもお寺ってなんや。お参りするところかな。葬式をあげるためのところかな。人が集まる拠点はお寺にしてもいいんちゃうか。」
「あ。オンライン上にお寺つくったら、みんなどこからでも来れるやん。そうやん、エアギターもあんねんから、エア寺もあってええやん。」
こんなゆるい展開で、日本の田舎のひっそりとした自宅でFacebookに書き込みをしたことから始まっているのが「エア寺」です。
文字通りといいますか、実質は建物がありませんが、お寺として在りたいと考えているそういう仏教にまつわるコミュニティを展開しています。
毎日朝から「南無阿弥陀」をもじった「ナモアミダンス」を、ブラジルとアルゼンチンと日本をつないで展開する浄土真宗のお坊さんがいたり。
一般人ながらエア寺主催で毎日お昼に「ランチタイムの5分間瞑想会」を続ける僕がいたり。
毎週定期的に「仏教に関する勉強会」や「月輪観(瞑想)」をやってくれる真言宗のお坊さんがいたり。
そして毎週火曜日はみんなで話をする「いのちの会」を展開して、とにかくみんなでテーマを決めて話してみるなんてことをやっていたり。
楽しんでいるうちに、毎週のようにやりたいことが出てきて、ちょっとずつ試してみて、楽しくなって実行する機会が重なって、楽しくなって続けていって、どんどんみんなが少しずつ参加してくれるようになった、楽しくなってみんなが徐々に集まるようになってきてくれました。
今日も8回目になり、これまでで一番たくさんの方が参加してくれました。
最近になって、エア寺ってそもそもなにを目指すんだろう、という話をしておきたいねという話をするようになりました。みんなが真剣な証拠です。
そして、大きな理念はこれになりました。
「訪れた人が自ずから菩薩になっていく場所」
いろんな意味を込めていますが、主には「自ずから菩薩になっていく」というところが非常に大事なポイントだなと思っています。そしてそれを関わるみんなが同意して、めっちゃええやん、という気持ちで関わっています。
菩薩になるということは、簡単に言うと、「人が生きる上で味わう苦しみとはなにか、そしてそれを楽にして生きていく方法を理解し、理解したからこそ、同じように苦しむ人たちとともに生きつつ、少しでも楽に生きて死んでいける人が増えるよう、人とともに生きていく存在」だと思っています。
だから、最初はみんないろいろ悩んだり、困ったり、興味があったり、わくわくしたり、欲深かったり、苦しかったり、成長意欲が高かったり、孤独な気持ちが強かったり、自尊心が低かったり、自信がなかったり、といろんな気持ちでエア寺を訪れる人がやってきてくれたらいいなと思うのです。
そして、私たちがそんな人たちを知識と知恵を担保にして指導するというわけでもなく、ただし放ったらかし過ぎることもなく、耳を傾けながら一緒に生きていく中で、本人が自ずから菩薩として生きていくことに目覚めていくような、そんな場所でありたいなと。
そして、関わった人たちが「私も手伝います、いや、むしろ私もやります」といって勝手に同志が増えていくような、そんな場所でありたいなと。
それはまさに自分たちが歩む道が、自ずから菩薩となる人をさらに集めていくような自然な流れになっていけば素晴らしいことだなと思っています。
そのために、いま4つのポイントを大事にしようかなと暫定的には思っています。そのため、これはまだこれから改良していく可能性がありますが。
それはこの4つです
・続けやすい(持続可能)
・楽しくある
・寛容である
・濃淡・奥行きのある活動(気楽に始めれていくらでも学べる)
・続けやすい
というのは、金銭的、時間的、人的なコストが小さく済む、低リスクな運営だからこそ続けていけるというものを大事にしようと思っています。猛烈な勢いで菩薩を爆発的に勢いつけて増やそう、なんてことは思っていません。
なぜなら、それぞれ運営メンバーが仏教に出会ったことはそんな強引な努力の流れによって生まれたものではなく、きわめて自然に、おだやかに、ふとしたきっかけから生まれたものだったと自覚しているからです。
お寺が物件の維持管理が難しいため、廃寺になってしまうことはたしかに拠点がなくなるという点では大きな問題だと思います。ただ、だからといって寺が廃れるから仏教が廃れるという短絡的なものではないはずだし、こんな世の中でお寺がないと仏教に関われないなんてはずはないわけです。
だから、僕らは僕らが続けたい限り、続けていきたい。そして少なくとも僕は死ぬまでは続けていくので、他の人の方が続けられなくなっても、僕がいる限りは続くし、もしくは僕より長生きで、同じように続けたいという人がいてくれれば、よほどのことがない限りはこの取り組みは続けられます。
仏教を身近に感じられるためにも、「続けやすい」を大事にします。
・楽しくある
というのは、ひとつ続けやすさにもつながりますが、コストの話とは違う、やる気の問題になります。僕たちはいろいろな経験と知識を経て、いま仏教に出会って、「苦しむのはやめて、楽に生きて死のう」と思っています。
ただし、どうしても向き合うべきことにぶつかることもあるでしょうから、そんなときに真正面から向き合うもよし、逃げちゃうことがあってもよし、なにせ本人のあるべき存在をそのまま表現すればよろしいなと思ってます。
そして僕らも正直にありたい。生きることは予測や想定をすれば、それが裏切られることもあって、苛立ったり、落胆したり、いろんな負の感情も芽生えがちですが、どんと構えて「これでいいのだ」と思えば、いま観るべき景色を泰然自若、悠然と眺めることもできようかと思います。
そしてそれもできないくらいの困難があれば、それはそれで有難いことですから、それをまた得難い経験として受け取るような、いずれも楽しむ気持ちを持つぼくらであり続けたいと考えています。
それが一番ぼくたちが、意欲の面で続けていける秘訣だと思うからです。
・寛容である
というのは、可能な限り分別にとらわれることなく、開かれた寛容な場であり続けられるようにしたいということです。
いろんな人が関わりたいと言ってくれれば関わって欲しいし、すこし距離を取りたいと言えば止めることもなく、穏やかに見送りたいと思います。
この場には居たいけど、場違いであるように思う人には、それが誤解であるということを伝え、あなたが居たいと思う限りこの場所に居られる、ということを伝えて守り続けられるようにありたいものです。
適当な感じで過ごしたい人もいてほしいし、きちんとしたい人もまたきちんとしたい気持ちに正直に生きて、それらがお互いに足りないところを指摘をし合って争うよりも、お互いにないものを提供してくれる素晴らしさ、補い合える関係がある嬉しさを、心から感謝できるようにありたいものです。
寛容さは簡単なことではないと思っていますが、だからこそ実現に向けて、これは取り組んでみたいという掲げるべき目標だと思いました。
・濃淡・奥行きのある活動(気楽に始めれていくらでも学べる)
これは、物事に優劣や順位をつけることのない範囲で、それぞれ多様な特徴をもつことを認識し、そのことを味わえるようにしておきたいということ。
例えば学びにレベルの高い低いはなく、品質の良し悪しもなく、ただし論点の違いはあり、表現の粒度の違いはあり、言葉と身体の表現の違いはあり、そうした種類が違うことは十分に示されていてほしいと思うのです。
そこには評価するものはなく、自分にとってタイミングが適切なものはきっとあり得るはずで、最初は苦手だと思っていたことが徐々に理解できるようになっていく、ということもあるはずです。
こうした特徴を備え、エア寺はオンラインを中心にするからこそ、自分のいる場所からすぐに来ることができるお寺として存在したいと思っています。
まだまだ活動は始まったばかりですが、ご縁あって、いろんな人と関わることがあれば、それはまた素晴らしいことだと思いますし、仏教に関わることや、瞑想する時間や合掌する機会が増えたりする、そんなことのために僕らはエア寺を真剣に楽しくやっていきたいと思っています。
久々に長文になりました。
素直な気持ちが書けて気持ちがいいです。
急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。