君たちは食われる心配ないのに悩むの?
毎週火曜日は生死(いのち)の会をやっております。
エア寺を運営して、この3月くらいからオンライン主体な世の中になったことでにわかに盛り上がってきまして、良い感じでずっと心地よくイベントをさせてもらっております。なにせ会場も要らないんで、いつでもどこでもイベントがさっと立ち上げられて、気楽なもんです。ああラクチン。
つくづくエアで出来ることはエアでやれることのありがたさを感じますし、リアルで出会うと良いことはそれを大事に味わうといいんだろうなと思いますので、五感で味わうことの貴重さについて僕らがそろそろ敏感になってきてもおかしくはないだろうなと思うわけです。
さてさて、7月のテーマは「食」でございます。
食べることは生きることであり、食べられることは死ぬこととも言えます。
食べることは生きることであり、排泄することは死ぬこととも言えます。
え、ってなるかもしれませんが。
ぼくがライオンに食われて、排泄されてウンコになるとしたら、それはそのまま土に還って栄養分になって、どこかで吸収されてまた植物になって、それでそれを誰かがまた食べて、食べて、食べて、人間に戻るかも。
そこに、僕がなにかを食べて、ウンコをするということを考えると、やはりそれはそれでそのまま土に還って、どこかで吸収されてまた植物になって、それでそれを誰かがまた食べて、食べて、食べて、人間に戻るかも。
豚を食べた僕がライオンに食われても、豚を食べなかった僕がライオンに食われても、ウンコになって、豚も僕も土に還る。
豚を食べた僕がウンコをしても、豚は土に還るし、ある意味では過去の僕もまた土に還ると言えます。
だから、食われることは死ぬことだし、排泄することも死ぬことだなと、そういう風に感じているわけです。食われるのもウンコするのも一緒かなと。
そんなことを考えながら、今日も話していました。
もっと今日は食にまつわる記憶の話をたくさんしましたので、内容的にはオカンがつくる塩おむすびは不思議に美味かったなーとか、同じ糠床を使っていても、それぞれの人がつくるとそれぞれの家の糠漬けに味に変わっていくことなど、人間の身体がもつ常在菌と味の関連とか、文化的にはみんなで協力して報恩講などで出していた「お斎(とき)」のようなメシづくりの文化があったんだよねー、とかそういう話をしながら、食と記憶について沢山話しました、が。
僕らが食について語るときは、「給食を残したのにいつまで食べさせられた」的な話にならない限りは、それほどネガティブな話になりづらい平和なトークテーマになるんだなと気付かされました。
しかし、もしもそこで「食われた」という視点があったとしたら、親父がサメに食われたとか、婆ちゃんはライオンの親子に食われてしまったなど、そういう話があるとネガティブな感じも出てくるのかもなあと思いました。
原始時代のことを思えば(ふつう思わないでしょうが)、我々は食われることから随分と安心して暮らせる平和な世の中になっておりまして、日常でサメに食い殺されたなんて話があると、ものすごいニュースになるわけです。
ですが恐竜がいたころなんざ、そんなニュース(まず、ニュースないけど)は日常茶飯事だったのではないかと思いますし、逞しく生き残ってきた、賢くて臆病さに優れた、生き残りやすい僕らの祖先のおかげで僕らはこうして生きているのかもしれない。そしてその恐怖を、徐々に知恵で克服してきたうことが、僕らがいま食物連鎖でかなりトップ層にいるということなのかもしれないと思ったのです。
なのに。
食われる心配なんか、もうないのに!!
人間は、明日どうしようと思って悩むことがあるわけですね。
「いやいや、別に食われたりしないから、そんな心配しなくていいじゃん」
「どうして君たちは食われる心配もないのに、そんなに悩むの?」
原始人の呆れた声が聞こえてきそうです。
どうしてこんなに安心な世の中で僕らは悩むのでしょう。
捕えられて食われる心配に関してはほぼ克服してきたというのに。