続けていくことの広がり
ひとつのことを長く続けていくことについて、得意ではないというイメージがあるかもしれないし、僕それなりに自覚もある。それでも意外と少年野球から中学・高校とずっと野球を続けて、10年に渡ってひとつのスポーツを続けてきたという自負はあって、飽き性に見えても、けっこう長く続けることもできないわけではないと自分では思っている。
ただ、野球に才能があったかというと、そこまで才能はなかったように思うし、もっと他に才能があったかもしれないとは思うが、他の人たちに比べて努力する根気がなかっただけなのかもしれないし、なによりも悔しいけれど他の人の方が才能があるとしても、自分にはまたそこに役割があって、そこで自分の役割を全うすることがとても大切だと理解することもできた。
最近では仏教について学ぶことについては、野球に迫ろうとしていることに気がつく。ちょうとおばあちゃんが亡くなって、お葬式でお経を唱えているときに、「こんな辛気臭い念仏が誰のために詠まれているのか」と、かなり無知であったからこそ思ったことがきっかけで、お経の意味を調べるということから仏教について学ぶことが始まり、もうすぐで10年ほどにもなる。
ありがたいことに、そんなご縁もあって、平成の最後の日には、立派なお寺の記念すべき行事に関わる企画の一端を担わせてもらえることができて、小さなことではあるけれど、実際に仕事として仏教に関わることもできるようになってきた。小さなことではあるけれど、とてもありがたいことだと思うし、なによりも自分がそうして関われる自信が持てたことが大きい。
模索しながらいろいろと試すことについて、感受性が鋭く、身体は疲れづらく、気力は失われづらいという特性を持った若い時期に、行動を躊躇っていては時間が勿体ない、という気がしていたからこそ、とにかく色んなことを試しては、違うと思うものは辞め、良いと思うものは続けるということを繰り返してきたし、今もそのトライを続けることは辞めずに続けている。
小商い塾という取り組みは、もう3年半ほど前にふと思い立ったことをきっかけに立ち上げた、自分の知識と経験をすべての知恵として、いま自分が感じる社会課題にとって最も解決したい課題に、みんなの意見を聞きながら、実際に解決できる方法を模索してつくりだしたひとつの挑戦だ。
初年度から、いま4年目に至るまで常になにかしら新しい要素を取り入れ、うまく伝えきれなかったことや、進められなかったと反省したことをすこしずつ取り入れては、形を変えて育ててきている形のないプログラムだ。
それでも変わらず、人生をひたすら愚直に、何時間かかっても本人が納得をできるまでは振り返り、そして自分の気持ちが言葉になるまで話してもらうということは、妥協せずに続けていこうと思って、変わらず続けている。
つい先日、久々に篠山市で開催していた篠山小商い塾のママさんメンバーのひとりでようこさんという、実績もすでに備えているのになぜか自分に自信が持ちきれないという、才能の塊のような女性と篠山市で久々に再会した。
「なんどもお礼を言わないといけないんです」
そんな風に言われたので、久々に出会って何かをしたわけでもないんだけど、なにか最近良いことでもあったのかなあと思って、聞いてみると。
「一緒にみんなで塾で過ごしてから、本当に落ち込まなくなりました!
ずっと毎月のように落ち込んでたのに、いま全然そんな風じゃなくて。
なんか、このままでもやっていけるって、楽になれたんです!」
そんな風に言ってくれて、もう本当に、めっちゃくちゃ嬉しかった。
人を信じる気持ちを持っているし、インドの旅なども経て、これまでよりももっと強い気持ちで人を信じることが大事だと思えるようになってきた。
うまくいかなくて落胆することを思えば、期待をしないという気持ちで穏やかに過ごすという境地はとても大事なのだけど、結果にも行動にも短期的に期待はしないことを選択することによって、落胆したり、悲しくなったり、怒りを持ったりすることはあえて避けるけれど、それでも必ずその短期的な結果や行動に関わることなく、必ずその人が嬉しい生き方をして、自分に自信を持って生きていくことができると信じていこうと思うようになった。
ようこさんとの塾での関わりは実際1年半くらいになって、ここ1年ちょっとご無沙汰になってしまっていたけれど、それでもそのときに伝わったことが今になってすこしずつ毎日のちょっとした自分への反応を変え、何かに対する自分の選択に対する恐れを手放し、勇気を持って選ぶことができることに、いくらか助けになっているのだと思うととても嬉しい。
実際はわずかなきっかけでしかないとも思う。そこから勇気を持って選び続けることによって、人生の選択の一つ一つが自分を支える自信につながっていくのだから、僕が関わったわずかな時間が影響を与えることができることもそうそうないとも思う。それでもときにはそんなことがある。
こんど日刊新聞のコラムに、副業や兼業に関する話題を友人が執筆することになったのだが、彼が自分がこの4年目を迎えた小商い塾の取り組みについて取材したいということで、話題をいくつか提供したところ、代表的な二人の取り組みが掲載されることになった。
どちらも自分にとっても自信がなく、それでも自分の中にある可能性を信じてみたいという気持ちがあって、なんとかきっかけをつかんで変化したいという期待を持って、信じて関わってくれた人たちで、実際に彼らの人生は、それまでとは明らかに違ってきていて、見ていてこちらも清々しいほどだ。
客観的に見れば才能に溢れる人たちも、自分ではその才能には一切気づかないまま、不向きなものだけで世の中に向き合っては自分に自信を失い、それでもなんとかしたいともがいているだけその人にはチャンスをつかむだけの努力をする気力と根性が備わっていたと言える気がする。
良い意味で、自分を諦めきれなかったということだ。
そういう人たちくらいしか、いま僕には変えることはできないけれど、それでも実際に嬉しい気持ちで生き始めてくれている人がいることが、なにより自分が日々を暮らしてきたことの、ひとつの結果でもある。結果が全てではないけれど、それでもやっぱり喜んでもらえるならば、意欲と勇気は増す。
まだまだ歩き始めたばかりの事業だけれども、去年も経産省でこの小商いに関する講義をしてほしいときっかけをつくってもらったことがご縁となり、今年は研修全体も支援するような機会もつくってもらえた。研修自体をつくることは新しいことではないが、小商いに関すること、創業に関することで自治体の人たちに向けた研修をつくることは、自分にとっては新しい挑戦の機会であり、それができているだけでとても光栄なことだと思う。
同じことを長く続けていても、なかなか芽の出ないものもあるし、ゆるやかにでも着実に広がっていくものもあって、そのいくつかが生活を支え、生きる気力と意欲を支えてくれている。
地味に、地道に、ということは誰の目に見えないほどゆっくり、ひっそりとしているとしても、確実に根を生やしてなにかにつながっていく。
人がその人生を生きる気持ちがすこし嬉しくなる、という変化ほど大切なものがあるかといえば、それは僕にとってはない。大きな事業をしたわけでもないが、誇りを持って胸を張れる仕事をさせてもらっていると言える。
恵まれた機会に、ただただ合掌。
急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。