焦ることなんかないんやから
今日はこれまでの丹波の活動において、もう9年近くずっとお世話になっているお坊さんとの大事な話をする日だった。自分自身の活動を見てきてくれたし、街の変化も一緒に感じてきたし、楽しく変化を味わってきたし、ここ最近の不甲斐なさもよくわかってくれているとても大切な和尚さんとの話。
とにかく2ヶ月のことをつらつらと、思いつくままに話して、和尚はひたすら耳を傾けてくれ、聞き終えてからいくつかの話をしてくれた。その中で、お釈迦様が涅槃に入る前に説いたと言われる八大人覚にある「楽寂静」という言葉をひとつ授けてくださった。
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三つには楽寂静(ギョウ ジャクジョウ)。諸(モロモロ)の憒閙(カイニョウ)を離れて、空間(クウゲン)に独処するを、楽寂静と名づく。
仏の言(ノタマ)はく、 「汝等比丘(ナンダチ ビク)、寂静無為(ジャクジョウ ムイ)の安楽(アンラク)を求めんと欲(ホッ)せば、当(マサ)に憒閙(カイニョウ)を離れて独処に間居(ゲンゴ)すべし。
静処(ジョウショ)の人は、帝釈諸天(タイシャク ショテン)の共に敬重(キョウジュウ)する所なり。是の故に、当に己衆他衆(コシュ タシュ)を捨てて、空間に独処し、苦本(クホン)を滅せんことを思うべし。
若(モ)し衆(シュ)を楽(ネガ)ふ者は、則(スナハ)ち衆悩(シュノウ)を受く。譬(タト)へば大樹の衆鳥(シュチョウ)之(コレ)に集まれば、則ち枯折(コセツ)の患(ウレ)ひ有るが如し。
世間の縛著(バクジャク)は衆苦(シュク)に没す。譬へば老象の泥(デイ)に溺(オボ)れて、自ら出づること能(アタ)はざるが如し。是れを遠離(オンリ)と名づく。」
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三つ目は、楽寂静(煩悩を滅ぼした涅槃の寂静を願うこと)である。騒がしい環境から離れ、静かな場所に一人で住むことを楽寂静という。
仏(釈尊)はこのように仰った。
「比丘(僧)たちよ、煩悩を滅ぼした涅槃の安楽を求めるならば、騒がしい環境を離れて一人で暮らしなさい。
静かな所に住む人は、天界の帝釈天や天神たちに尊い存在として敬われるのである。だから自分に関わる人々や他の人々から離れ、静かな場所に一人住んで、苦しみの根本を滅ぼそうと願いなさい。
もし多くの人々との関わりを好んで求めるなら、多くの悩み患いを受けることになる。それは、大樹に多くの鳥が集まれば、枯れたり折れたりする心配があるようなものだ。
人は、世間の束縛によって多くの苦しみに沈んでいる。それは老像が泥に溺れて、自ら出ることが出来ないようなものだ。
このように静かな場所に住むことを遠離という。」
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この言葉をくださった上で。
「僕もなあ、人は好きや。いやあ、煩わしいけど、人が好きやわ。
せやけど、やっぱり今は僕もそうせなあかんと思ってやっとる。
僕も2年前にごっつい怒られたことがあってなあ。話したことあったな。
そのことはほんまに悔しかったし、今でも悔しいと思うくらいや。
でもやっぱり間違ってない、よう見てはったんや。
うちの寺も、やっぱり自分の城や。せやから自分が大切にせなあかん。
そう思ってやってる。せやから、一人でそれに取り組めばいい。
焦らんでええんや。焦ることなんかないんやから。」
そう言葉を次いでくれた。
20歳も年下の自分に、僕が受け取りやすいように、なんという配慮ある言葉を下さるんだろうと思って、涙が出そうになった。
自覚するだけでも何回もガッカリさせてしまっているけど、忍耐強く一緒に関わってくれて、タイミングよく言葉をくださる人生の先輩がいる。
それが僕がもっている宝物なんやなあと思う。
そしてその宝物が見放すことなく自分を見守っていてくれる。
「君は君のことをやったらええんや」
つくづくそうやなと、そう思う。