たまたまのたまもの
なんでだろう?なんでだろう?
理由を尋ねて納得できることもあるけれど、
「なぜ宇宙に地球があるのか」
「なぜ地球に人間がいるのか」
「なぜ地球に自分がいるのか」
「なぜ自分がこんな性格なのか」
「なぜ彼はこんな性格なのか」
そんなことだけでもすでに答えに詰まる。
理由がなさ過ぎて、理不尽だということもあるけれど、生きてることがそもそも理不尽なことなので、だいたい理不尽で埋め尽くされた世の中だ。
もしもどこかで、もしもいつか、なにかひとつ打ち込めると信じられるものがみつかったなら、それはとても幸いなことじゃないかと思うのです。
ぼくは仏教が好きですけども。
じゃあ、なんで仏教にしたのかといえば、たまたま出会ったからだし、なぜ丹波にいるのかと言えば、理由を説明はできるけど、でもたまたまだし。
だいたいのことがたまたまなんですよ。
で、そのたまたまのことに理由が欲しければつければいいし、それで納得ができるならそれを理由にすればいいと思う。納得はとても大事だから。
だけど同じくらい、きっと諦めることも大事だと僕は思っています。
なぜ」を突き詰めて、それがわかったところで、事実が本当によくなるのかはわからない。起こった事実に「なぜ」と問いたい気持ちはあったとしてもそのことで気が済むわけじゃない、ってことはきっと多い。
理由が欲しくても、理由がみつからないことだってある。理不尽にも。
だからやりきれないことがあるけれど、それはもう泣いたり、叫んだり、喚いたりしなきゃどうしようもないかもしれない。その時はそうするといい。
それでも、起こった事実に対する「なぜ」が見つからないとしたら。
起こった事実から「なにを感じるか」「どのように受け止めるか」について思いを馳せ、そして新たな気持ちで生きていく。辛かろうとと苦しかろうと生きていくと良いと思うし、どうしても嫌ならしたいことをするといい。
そこにまた自分も報復したいから、新たな理不尽を生むかもしれない。それで自分のことを嫌悪するような行動をとるかもしれない。でも、自分が実行したそれは、やはり理由になるようでならない。
私も苦しい思いをしたから、あなたも苦しんでほしい、なんてことは理不尽なことで、もしもそれを繰り返すようなら、理不尽をさらに理不尽の連鎖でつないでいくだけの、ある意味では理屈の通った道だ。けれどそんなことをして誰も嬉しくはならないから、結局それをしたところで辛くなる。
たまたまそうだった。辛いことも嬉しいことも、たまたまそうだった。
辛いことばかり、足りないものばかりを見れば、それはもう自分は不幸の星のもとに生まれたような気持ちになる。
ないものも多いけど、これには恵まれていると見つけていけば、自分に恵まれたことが何なのかを気づくことができるかもしれない。
たまたま自分に与えられた恵みとはなんだろう。
たまたま自分に与えられた機会とはなんだろう。
たまたまでええやん。いいものが手元にあることに理由はなくても。
それはたまたま手元にあることになった、貴重なご縁で結ばれている。