朝から晩まで話してました
9時30分~ 群馬県の伊勢崎市の小商い塾のメンバーと。
12時30分~ 100万人の瞑想会 いつものみなさんと。
13時~ 静岡市小商い塾のメンバーと。
17時~ 友人のはるくんと。
18時~ 丹波コミュニティカレッジのメンバーと。
20時~ 小商い塾オンラインのメンバーと。
まじでずっと話し込んでおりました。なんでしょうね、瞑想のようです。
不思議なことですが、みんなと話しているときの呼吸は瞑想のようで、なんとなく浅い呼吸ではなく、深い呼吸で、ただ自分の中で閃いたままに閃いたことをそのまま話していくような感じです。
それはなんとなく、占い師が直観でその人にいま必要な言葉を渡しているのではないかと思うように、ぼくはあまり何も考える意識もなく、必要な言葉が次々と浮かび上がってくるし、聴かなきゃいけないときは聴き続け、ただその場で必要とされていた情報がその場に表現されていく感じです。
実現したいことというのは、
「自分を信じる力をもてるようにすること」
「世界を信じる力をもてるようにすること」
「実現するということがなにかを知ること」
「ただ自分がなすべきことに向き合うよう調整すること」
「悩まなくていいときには悩まなくていいと伝えること」
「悩みの原因は誤解であるということを伝えること」
「実現しようと思うことはすでに始まっていることを伝えること」
「気分の上げ下げに関わらず物語は進んでいることを伝えること」
総じて、存在はそもそもありたいようにあるし、あるべきことに自然とありたい気持ちが向かうのだから、必ず物語は実現すべきことに向かって順調に進んでいくということを信じるということです。
ただ、そんなことを言っても意味が分からないかもしれないので、具体的に話をします。どんな大きなイベントがあっても、困りごとがあっても、常に自分がその状況にゆさぶりをかけられつつ、そこで試されているということを知っているだけでご機嫌はそうそう崩されはしません。
どんなものごとにも色はついておらず、想定することによって、想定以上だったり、想定以下だったりして、それをするからこそ嬉しかったり悲しかったりするという、そういう仕組みのものです。正しく観れていません。
事実がなぜそのように起こったのかは、必ずそのあとに理由が明確になるのですが、それを早く知りたいので、ついつい焦ってしまうものです。
しかし漫画家が徐々にその物語を明らかにしていくように、それぞれの物語がどんなものだったのかを、必ず順を追ってみることができるようになっています。
しかもそれが予め分かっていたとしても、つまらないにきまっていますから、もはやそれは楽しむべき物語であると自覚すべきで、毎週お楽しみに~ってドラマを見るかのように、自分の眼で、耳、鼻、舌、身、意識、で知覚してゆくことこそが味わい深い楽しみそのものです。
ノートの文章も、小商い塾での言葉も、適度な緊張感とリラックスが混在をしているときに出てくる言葉は、もはや自分の意志とは違うところから湧き出てくるかのようです。絵も、歌も、踊りも、言葉も、流れるように生まれ出てくるときは、もはや意思から離れているような気がします。
それを出してみて、はじめて、わたしがなにを思う存在なのか、実現したい存在なのか、を自覚するのではないかと思うのです。
それが徐々に明らかになっていくなんて、なんだか謎解きの小説みたいで楽しいじゃないですか。
と、ぼくは思うけど、どうなんだろう。それじゃ不安かな。
急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。