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勉強嫌いな私の学び方
「本当に勉強熱心なんですね」
そんなことを言われたりすることがありますが、私個人としては勉強は大嫌いな方だと思っています。
高校生の自分の娘が勉強嫌いなのを見て、あぁ自分の血を引いているんだな、ってつくづく痛感してしまい、怒る気もしなくなっている自分に気づいて、あらためて勉強嫌いを実感しています。
(私の妻は勉強大好きな人なのでその対比で余計そう思うのかもですが)
それでも仕事がら色々なものを学ぶ必要性はありますので、好むと好まざるとに関わらず日々学んでいます。
では、勉強嫌いの私はどうやって学んでいるのか。
あらためて考えてみました。
勉強嫌いになったわけ
多分最初から勉強嫌いではなかったんだろうとは思っています。
少なくとも小学校の低学年ぐらいまでは、さまざまなものに興味を持ち、自分から調べて勉強するようなことをしていました。本を読んだり、図鑑で調べたり。
そう、自分の中から出てくる好奇心からスタートする学びでした。
しかし、小学校の高学年になるに従って徐々に勉強嫌いになってゆきます。
きっかけは大きくは二つあったと思います。
一つは、学校の先生や親の介入だったと思います。
小学校二年生の時に、授業中に書いた「将来自分が何になりたいか」の作文を修正する羽目になったこと(その話はこちらのnoteの中盤に書いています)や、全国コンクールに出す読後感想文を原型を留めないくらいに親に修正させられたりしたこと、学校の展覧会に出す工作の宿題を全部親が作ってしまったりとか…
もちろんそこには、親や先生の成長と成功を期待する愛があったのだとは思いますが、本人にしてみれば自発的にやったことを否定され、自分がやりたくもない、作りたくもないものを作らされていた拷問のような体験でした。
もう一つは、中学受験でした。こちらは間違いないなと自覚してます。
遊びたい盛りの小学生が、行きたくもない進学教室に毎週末通い、模擬試験を受けて順位を競い、点数が悪いと親から叱られ、まるで罰ゲームのように塾に通わらされる…
私にとっては苦行以外の何ものでもなかったです。いつ、これが終わるんだろう、と。
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面白いと思うから学べる
そんな中学受験の苦行を乗り越えて、なんとか親の期待に合う学校に入った私は、中学校という新しい環境で小学校とは異なる、言ってみれば一段高い学びの機会を得ました。
特に中学校では教師に恵まれていたと思います。
面白いと思えるような授業がそこにありました。
何が良かったのだろうと振り返ってみると、何よりも教師が教えることを楽しんでいたのが大きかったと思います。
「教師が教えることを楽しむ」
これは教師側の自己満足ではありません。あとで振り返ってみると、私の通った中学の教師と高校の教師では同じように「教えることを楽しむ」をしていても、全く違う感じになっていました。
高校の教師は、大学で講師(まだ教授ではない)をしている人たちでした。
その人たちは教えることを楽しんでいるのだけれど、それは自分の教えるコンテンツに酔っているだけのように見えました。例えば、英語の授業で延々とシェイクスピアをやったりいたり(難しすぎます)、世界史の授業で中国史しかしなかったり(世界狭すぎます)でした。
その授業を経て、試験では教師の趣味の世界のような問題が現れ、たまに教えてもらってないことが出てきてたりして、「知らんがな」みたくなってしまう…
んで、結果を返すときに得意になって解説を始める教師に辟易していました。
翻って中学の時の教師は、今思えばコンテンツよりも生徒の反応を楽しんでいました。
何を教えるかよりも、生徒側に投げかけや問いかけを行い、そこから出てくる反応によって見せるものや教えるものを柔軟に変えていました。
そして、生徒側がおおよそ理解しただろうという頃になって、一段深い「謎」を投げかけて生徒側のさらに学ぶ意欲となる好奇心を掻き立てていました。
そう。学びの楽しさとは発見なんだと思うんです。
面白いと思うことを発見する。
そして、そこからの好奇心。
少なくとも私の場合はそうでした。
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中学と高校との教師の教え方の違いはありましたし、それにより学び意欲や興味が変わることはありましたけれど、基本、親にあれこれ文句を言われないよう無難にストレート(落第しないで)に学校を卒業すればいいと考えていた私にとって、学校での勉強は社会人になるまでの通過儀礼のようなものでした。
もちろん、中には面白いと思えた科目や学科もありましたけれど、基本は単位を取って卒業するための最小限を満たすために選んでいたもの(いわゆる楽勝科目)でしたので、100%自分の意志で学びたいものを学んでいた状態ではなかったと自覚しています。
卒業するまでの試験の連続を通過するための勉強であり、苦行。
この考え方は小学校高学年の受験勉強の時から私の中でなんら変わっていなかったのかもしれません。
だから、学校や大学で学んだ事のほとんどは卒業後には頭の中から抜けてしまっていますし、思い出すことも稀です。
しかし、そんな私が社会人になってからは学ぶようになりました。
自ら積極的に。
そして、その学び方はかなり変化していました。
試験ではなく体験から学ぶ
社会人になった私の最初の仕事は営業でした。
売り歩く商材は電子材料。
学校では全く教わったことがない半導体の作り方や、化学物質に関する知識がないと営業での訪問先に話ができません。
当然ですが、本を読んだりして必死に勉強をします。
しかし、自分が学べたのか、知識が身についているのかを確かめるための試験はそこにはありませんでした。
知識が身についているかどうかは、訪問先での面談、つまり現実世界の具体的な実践で試されるわけです。
一所懸命覚えてきたことを使って訪問先に説明をするわけですけれど、間違ったことを言ってしまうと最悪相手の会社やひいては自社に大損害を与えることになりかねません。かといって、聞かれたことに「分かりません」しか返せないようでは次に訪問する時には門前払いになってしまいます。
そうならないように、必死になって勉強するわけです。
学ばないといけないのは知識だけではありません。
相手の反応を観察しその意味を察知すること、質問を駆使した情報収集の仕方、持っている知識を相手にわかるよう順序よく組み立てての説明…
そう、言ってみればコミュニケーション・スキルですが、これらは全て、実践の中で試行錯誤を繰り返しながら学んできたものでした。
そして、学びの獲得を可能にしたらしめていたのは、上手くいかなかった時の振り返りであり、振り返りから得た教訓を生かして次の行動を改善し、上手くいくようになったのであればそれが反復するように、記録したり練習したりしていたわけです。
のちに人事の仕事をするようになってから、これがコルブの経験学習サイクルと呼ばれているものであることを私は知りました。
使いもしない知識を覚えて試験でどれだけ吐き出せるかよりも、自分で実際に行動して試してみて通用するものだけを覚えこんでゆく学びのスタイル…
私の性格として、実践を伴わない、役に立たない学びはそもそもやる気が起きなかったことは間違いないと思いますが、もう一つ理由があると思っています。
感情の振れと学び
学びの試行錯誤を繰り返しながら営業をしていた私の中で常に起きていたのは、ハラハラドキドキであったり、ガッカリやトボトボであったり、またある時はヨッシャとガッツポーズを切って喜んだり、でした。
訪問前にちゃんと相手に上手く話せるのかなとドキドキしたり、私のプレゼンを聞いている人の反応が気になってハラハラしていたり…
競合品の採用が決まってガッカリし、トボトボと社に戻ったり。あるいは、大きなオーダーをゲットしてガッツポーズを切って喜んだり…
情景が浮かぶでしょうか?
そのような私自身の気持ちが動くような体験が、学ぶプロセスにコントラストを作り出し、頭脳の中に記憶として刻まれる以上に、肉体に学びとして刻まれてゆきます。
そして、同様の場面になると頭よりも体に先に反応が現れ、それが学びを呼び起こすのです。
このように、経験型の学習方法は、試験勉強のように頭の中での思考プロセスだけで完結するものではなく、行動した時に心の中に湧き起こる感情を伴うことで頭だけでなく身体反応として記録される特徴があると私は考えます。
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思えば、試験のために学ぶようなことがなかった子供の頃は、ワクワクドキドキしながら様々なものに接し、そこから発見したことに興奮し、さらなる知的好奇心から学びを深めていってました。
誰から指示されるわけでもなく、テストに向けて頑張るわけでもなく。
それがいつしか誰かに言われて勉強したり、何かのために学んだりするようになり、ある意味「冷めた学び」しか体験しなくなっていたのかもしれません。
裏返し的に考えるなら、学びの中にもっと積極的に感情を取り入れてゆくことができれば、もっともっと私は上手く学べるようになっていたわけで、そうなれなかったのは「やらされ感」満載の状況に対する「嫌気」が他の感情を全て上書きしてしまっていたからなのかもしれません。
「好きこそものの上手なれ」
と言いますけれど、好きかどうかは多分大きな問題ではなく、ワクワクできたりドキドキできたり、気持ちが動くほどまで自分を持ってゆくことができれば、勉強することや学習することは容易いのかもしれません。
あなたは最近、何かに気持ちが動いたことはありますか?
それにもう一歩踏み込んでみる、体験しにいってみることで感情が振れたら、そこに新しい学びの入り口が待っているのかもしれませんよ。
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