麻雀してて気づいたOJTの真髄
学生時代にロクに勉強しないで麻雀ばっかりやってた私ですが、社会人になっては卓を囲むことはめっきり減ってしまいました。
やる人、できる人が周りにいなくなったということもあり、今では一年に一回もすることはなく、スマホのゲームなどもしなくなりました。
そんな私でしたが、先日対話について体験を通じて学びを深めるグループに参加している中で、たまたま全員麻雀のルールを知っていることが分かり、「それじゃあこのメンバーで麻雀やったらどんな感じになるのかやってみよう」ということになったのでした。
グループの対話の中で出て来たのは、「麻雀はその人の性格や考え方が現れるので、それを振り返りの中で開示してみたら面白いかもしれない」という意見でした。
もう数年一緒に勉強会などをしてきているメンバーでしたが知らなかった意外な側面があらわれるかもしれないというワクワク感と、思考プロセスと感情の動きまで開示しながら卓を囲むことでどのくらい相互理解が進むのかという実験的な要素も興味が湧きました。
やるからには腰を据えて、ある程度の回数を回してみようということで、なんと一泊二日の泊まり込みで麻雀対話大会のスタートとなったわけです。
丸一日どんなことをやったのかの流れとそこから得られた思いがけない気づきについて振り返りも含めてまとめてみます。
ルール解説とならし
冒頭に述べたように私は学生時代手積み→自動卓で麻雀をしていた口でしたが、勉強会のメンバーと麻雀するのは初めてでしたし、彼らの実力も未知数でした。
一人はスマホやパソコンのゲームとしての麻雀でトーナメントなどに参加していたので相当上手いだろうとは思っていましたけれど、後の二人は「子供の頃にやって以来かも」という状況でした。
そこで最初は、それぞれがちゃんとルールを理解しているかの確認からでした。
麻雀が牌を揃えてゆくゲームだということは知っていても役を知らない(ないしは全ての役は知らない)ということはよくあることですので、どうなったら上がって良いのか、その解説からでした。
ある程度説明して、少し思い出してもらったあたりで点数計算なしで東場を回します。
言わば「馴らし」ですね。
ここで意外だったのがゲームで麻雀慣れしているはずのメンバーが、賽の目の読み方や麻雀牌の取り方配り方を知らなかったことでした。ゲームの中では自動で行われるので知らなくても無理ないですね。
同様に点数計算や点棒のやり取りもゲームは自動で行われますので知る必要はなかったのでしょう、上がったはいいけれどこれは何点だろう、ということになったりもしました。
ここは私も経験してるところだったので、その場で計算方法を示し、計算してやり取りを行いつつ、念のためネットで検索して確認するやり方になりました。
親が一巡する間に、なんとなく麻雀の感覚を思い出したあたりでいよいよ点数を数えながらの真剣勝負です。
様子を見る、手を読む
ゲームであってもやるからには勝ちたい。素直にそう思います。
でも、それぞれのメンバーにどのような癖があるのかがわからないので、戸惑いもあります。
手積みの麻雀の場合は、捨て牌だけでなく手持ち牌のどこに自摸った牌を入れて、どこから捨て牌が出てくるかまでを注意深く見ながら相手の手を読んでゆくことができます。
癖や好みがわかっている相手を打っている時は、あ、今テンパイしたな、とか普通にわかるものです。
ですが、今回はその癖がわからないので、何をしているのか、何をやっているのかが全く分からない状況でした。
役も知らないくらいだから警戒しなくて良いということはなく、むしろ逆です。
ゲームなどで慣れていて麻雀を知っている人の手作りというのは読みやすく、警戒すべき時が来たら分かりますし、それがその人が醸す雰囲気にも出てきたりします。つまり、警戒すべき時がわかる。
しかし、分からない中で迷いながらやってる人は手作りがブレるので、みている側としては何をしているのかが全く分からず不気味な感じしかありません。
通常麻雀をやる時には、一局終わってからの振り返りなどはしませんけれど、目的の一つでも合ったので、やってみました。
すると、私が読めないなと思っていた二人の考えていたことがわかりました。
一人は、いかに綺麗な手を作るかについてずっと考えていました。
綺麗な手というのは、一色系や三色、一気通貫のように見た目も美しい手という意味です。上がれるかどうかよりも、牌を綺麗に揃えてゆくことに関心があり、結果的に手づくりが遅くなってしまって上がれないままになっていました。
もう一人は、どちらかというといかに早く効率よく手を作ってゆくかというところに関心があるようでした。
割と早いタイミングで、作り上げる手の方針を決めて、そこになかなか思った牌が入ってこないのでイライラしてるように見えることもありました。
そうだったのか、そういうことか…
と話を聞いて納得はしましたけれど、だからと言って何をしているのかがわかるようになるまでには何局か追加で回してゆくことが必要でした。
四巡ほどしたあたりから、なんとなくそれぞれの打ち方の個性が見えてきて、警戒をしないでも打てるようになってきました。
実験的な試み
振り返りの頻度を高くするために半荘戦ではなく東風戦だけで2回ほど回し、そこから半荘戦を一回やった後あたりで、少し実験的なことをしてみようという話になりました。
麻雀歴の浅い二人が、手の作り方を解説してもらいながらやりたい、と提案してきました。手作りのコツを掴みたいというわけです。
そこで、全員の手を配牌の時点で開示し、自摸ってきた牌をどのように扱い、何を捨ててゆくのか。その理由をみんなで話し合いながらやってみました。
これは経験者同士の間でも学びのある体験になりました。
というのも、好みや癖よりも、ロジックで行う麻雀になっていたからです。
どの牌を捨てるのかによって今後の手の発展性やアガリまでの速さが変わってくるので、理にかなった動きを説明することになります。
それが面白いかどうかは横に置いて、です。
牌を開示しながらやっているので、何が他者のあたり牌かはわかっているのですが、そこは自分の手作りのみに徹して点数換算はしないでお互いの学びだけを目的にしました。
ロジックを説明する側も説明を聞くがわも頭の体操的に勉強になりました。しかし、説明を聞いて自分ができるかというと必ずしもそうはなりません。
「OJTをしてもらいたい」
今度はそんな提案が出てきました。
4人を二つに分けてタッグを組み、組んだ物同士はお互いの手を開示してもう一方のペアに対抗するというやり方です。
二人で相談しながら手作りするような形になりますけれど、お互いに振り込んだり、当たらないようにはするとかはナシという条件で行うことにしました。
東風戦の一巡を回してみただけでしたけれど、このOJTの効果は絶大でした。
その後の3回の東風戦は、経験の浅い二人がトップをとり、私は全く勝つことができない状態で終わったのでした。
OJTの真髄とは何か
終わってからの振り返りで、この一日の間に起きていたことがなんであったのかについて四人で考えていました。
全員に強く印象に残っているのが、OJT前後の変化でした。
そもそもOJT、On the Job Trainingとはいったい何なのか。
についても想いを巡らせることになりました。
「これ、マニュアルとかないんですか?」
新入社員のトレーニングでOJTをやっていると、必ずと言って良いほど言われるのだそうです。
もちろん、決まった手順のようなものであればマニュアル化することはできるでしょうし、それに沿って繰り返して行なって行けば間違いもないでしょう。
作るのは手間かもしれませんけれど、トレーニングや引き継ぎすら要らなくなるかもしれません。
手順が決まっていない状況判断の仕方についてはどうでしょうか。
状況判断も単に暗黙知の形式知化ができていないだけであり、いくつかのパターンでマニュアル化することも可能な場合はあるかもしれません。
フローチャートで書き表すことができるような類のものがそうでしょう。
しかし、麻雀のようにここで何を捨てるべきか、のような状況判断については、パターンが無限にあり得るのでマニュアル化ができません。
中途半端によくあるパターンだけをマニュアル化していると、そうではないパターンが出てきた時にフリーズしてしまいます。
必要なのは、マニュアルに載ってる状況や経験済みではない状況になった時に、どのように判断するのかを自分で考えることができるようにすることです。
簡単にやる方法、早くやる方法ばかり追求していると、得てしてパターン学習になってしまいます。
そして、パターン分けして全てができるのであれば、それはロボットやコンピュータ・プログラムで遂行可能でしょうし、少し賢いAIであれば応用すらできてしまうかもしれませんよね。そういう仕事は将来的には人間の出る幕ではなくなってゆくでしょう。
麻雀のOJTの話に戻ると、経験者の二人が経験の浅い二人に伝えていたのは、「如何にして勝つか」でした。
美しい手を崩し、その分早い手作りで結果的に高い点を稼ぐ経験をしてもらったり、方針を決めずに手が広がる方向に牌を集めながら、いつの間にか高い手ができてゆく様子を経験してもらったり…
最初は指示多めだけれど、なぜそうするのかの理由を丁寧に説明する。
途中からは相手の考えとその理由を聞き、見逃している点がなければそのままやらせてみて、見逃している点があればそれを指摘して行動を変えてもらう…
ティーチングからコーチングに次第に、自然にシフトします。
同時に伝えていたのは、
「美しい手ができても上がり点が安くて負けてしまっては何にもならない。」
「場の流れを見て、方向性を柔軟に変えられるように手を作ってゆく。」
一つ一つの牌の流しながら、時折、何を考えながら麻雀をしているのかについての言語化をし、自分でも自分が発したその言葉に納得して噛みしめている…
そんなことも起きていました。
麻雀の場合は、自分が作りたい手というのが出てくると、必ずしも状況判断の正解がありません。
だからこそ、自分で考えられるようにする必要があります。
美しい手を作りたいけれど場の状況を見ると安く上がった方が良さそうだ、そこで葛藤は起きるでしょうし、その判断に正解はないのです。
自分で決めたからこそ「仕方ない」と納得もできるでしょう。
このような状況判断力をつけるOJTの最も素晴らしいところは、マニュアルなどで効率を追求し、自分で考えたり判断判断するのを放棄するのではなく、このように自分で判断することができる楽しさを知る、ということではないかなと私は思います。
それはとりも直さず、人間として(ロボットや機械ではなく)仕事をすることの楽しさを知る、というにもなるのではないでしょうか。
こんなことまで考えさせてくれるなんて、麻雀ってあらためて面白いゲームだなって思います。
長く愛されるものには奥深いものがありますよね。