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いじめと友情の発展について考えたこと

大阪に独りで長く暮らしていた単身赴任期間において、さらにコロナのパンデミックが起きて人との繋がりを絶たれたとき、本当にありがたいなと思ったのは友人の存在でした。facebookで近況を報告しあったり、clubhouseやXのスペースで語り合ったり。
誰かと繋がっていること、お互いを気にかけ合える存在があることの重要さを再認識していたと思います。

それからコロナが明けて、再び人は会って繋がることができるようになりましたが、人との繋がり方に対する認識はそれ以前とは変わったのではないかと思っています。そして、同時に今まで以上に考えるようになったのが「友情とはなんだろう」でした。

そんな中でこの本に出会いました。

七人の哲学者(アリストテレス、カント、ニーチェ、ヴェイユ、ボーヴォワール、フーコー、マッキンタイア)が論じる哲学について解説されているとても興味深い本です。
それぞれの哲学者が生きた時代における「友情」の考え方を知ると、現代の友情はそれらとはまた違った側面を持っているなと私は感じてしまいます。

その本の第一章、アリストテレスの友情論について読書会を行った時に、思いついたある仮説があります。それは、イジメがなぜ起こるのかの裏側に友情の発展過程があるのではないかという考え方です。

アリストテレスの友情論

まず、本の中に書かれているアリストテレスの友情の考え方について整理しておきましょう。古代ギリシャ時代、しかもアリストテレスが接していたのは現代のような市民ではなく、奴隷制度に下支えされた市民だったと思われます。
生活上の便宜は十分に整っている中で、人々はそれぞれが自律しつつ、お互いに尊重しあっていたようです。

個々が自律していることが前提であったとして、人が生きるとは、誰かに頼って生きるのではなく、自分のことは自分で行い、他者を尊重し、より良い自分自身であり、社会生活を営む生き物としてのヒトとして豊かに生きること…
これは自律した人がさらに自分を高めるために友情は必要なものであるという考え方であり、ある意味雄々しい生き様かもしれません。

生き物として生きる上では独りでも可能であるけれど、ヒトとして生きる上では友情が必要である理由、というか要因には三つあると説かれています。

一言で言うと、「快楽」に基づく友情は「一緒にいて楽しいから」友達でいようとすることであり、「有用さ」に基づく友情とは「一緒にいると自分にとって役に立つから」友情でいようとすること。
そして「善良さ」に基づく友情は、相手の持つ優れた性質や「徳」のようなもの(その人ならではの個性)に惹かれあって築かれる友情なので、もっとも固く結ばれ長続きするものであると考えられています。

アリストテレスに寄れば、自分の中にあるもの(徳)と同じものを相手の中に写し鏡のように見出したときに人は惹かれあって硬い友情、「善良さ」に基づく友情で結ばれると言うことらしいです。

幼児期からの友情の発展

アリストテレスの言う、三つの友情。実際にはどれか一つということではなく三つの混合になっていて、それは個人がどれを指向するのかということと同時に、相手によっても使い分けているだろうなというのが最初の感想でした。

そのような友情の多様性を手に入れるまでには、友達との付き合い方に幼児期からの発展段階があって、それを通じてヒトは「人間」として成長するのかもしれない、とふと思いつきました。
人(ヒト)が人との「間」を獲得して「人間」というわけです。

幼児期。初めて友達ができる時というのは誰しも「快楽に基づく友情」から始まっているということはないでしょうか。
自分自身の子供の頃の朧げな記憶や、子育てをしてる中で親として客観的に子供を見ていると「楽しいから」友達と遊んでいる、ということがよくわかりますし、伝わってきますよね。

そして、小学校に入るあたりからでしょうか。快楽だけでなく「有用さに基づく友情」が少しずつ混じってくるような。
例えば、「○○君は勉強ができるし教えてくれるから」とか「△△ちゃんの持っているお人形で一緒に遊びたいから」のように、「なぜその子と友達なの」の答えになるものに現れてくるものかもしれません。

そうやって、「快楽」だけではなく「有用さ」が加わり続いてゆくことで子供たちの友情は深まってゆくところがあるのではないでしょうか。

「いじめ」は友情の発展において起こるべくして起きていないか

子供たちは、快楽と有用さに基づく交流を繰り返しながら「仲良く」なってゆきますが、そうやって深めてゆく友情はどこかで限界が来ます。
楽しいことがなくなったり、交換できる有用さに飽きが来たり。他にも理由はあるかもしれません。

そうなった時に、さらに友達との繋がり、友情を深めたかったとしたら何をするでしょうか。
ここから先は私の仮説ですけれど、「いじめ」ってその時点から表出するのではないだろうか、と。

アリストテレスの友情論に戻って、ここまででまだ出てきていないのが「善良さに基づく友情」です。それは、自分の中にある善良さを相手の中に見出した時に芽生えるわけですけれど、小学校の中学年から高学年というのは「自尊心の揺らぎ」とも言える「9歳、10歳の壁」がやってくる時期です。
すなわち、善良さに基づく友情を育むベースとなる「自分を愛する」が難しくなってくる時期というわけです。

となると、どうするか。
他者との繋がり、友達との繋がりの深さを確かめるために、友達である者と友達ではない者の境目やコントラストをはっきりさせ、自分と友達との繋がりの強固する。それが「いじめ」となって現れているのではないかと私は考えました。
つまり、友情の深さを実感できるようにするためにいじめが起きる、と。
残酷な話ですが、相手は子供ですから自分たちが何をやっているのか、なぜやっているのかは分かっていないでやっているのだと思います。

大人になってから「いじめ」をしている人を見た時、これを読んでいるあなたはどう思うでしょうか。
嫌悪感を感じたり、「大人気ないな」とか思うのではないでしょうか。
私もそう思うし、そこに未発達の人間関係構築力を感じてしまいます。

また、「いじめ」ってローテーションみたいなことが起きていませんでしたか?
いじめていた側がいじめられる側にいつの間に関わっている、みたいな。
で、そんなことが何周か回っているうちに、本当に心のうちを語り合える友達ができてきてこれまでに感じられなかった強い繋がりが得られる、親友だなって思えるようになることが小学校高学年から中学生ぐらいで起きているように私には見えます。

子を持つ親として切に願うこと

こうやって考えてきて、私にはいじめは子供の成長において必然的に起きてしまうもののように思えてきました。
だから、学校や親が無理やり押さえつけようとすると、却って見えないところでさらに陰湿になってしまう。そして、いじめは陰湿になればなるほど、されてる側は助けを求めにくくなってさらに孤立してしまうことになる…
なんだかやり切れない気分になってきますね。

私自身、娘が小学校から中学校になるときに本人に伝えたことで、今も切に願っていることが一つあります。それは、
「学生時代の間にかけがえの無い友達を作って欲しい」

スバ抜けた成績を取ってくれなくても構わない。
自分が一生夢中になって打ち込めるような何かが見つからなくても構わない。
でも、友達だけは自分が生きてゆく糧であり希望になるものだから。

アリストテレスの友情に戻って考えるのであれば、自律した個と個の間に友情が芽生えるというよりも、支え合う信頼関係と友情の中から人は真に自律した個へと成長し「人間」となるのではないか、と私は思います。

親はおそらくは子供より先に逝ってしまいます。
あとに残された子供が社会生活を営む「人間」として、精神的に豊かで幸せな人生を過ごすためには「善良さに基づく友情」で強く結ばれたかけがえの無い友人は欠かせないのではないでしょうか。

そして、思います。
私にはそういう人が居ただろうか。今、周りに居るだろうか、と。

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いたる | 外資系人事の独り言
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