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「切ない」という感情について考えてみた

flier book laboという読書に因んだコミュニティにおいて、定期的に開催されている感情について話し合う対話会があります。その名も「こころふるえる部」。
そこでは本を取り上げて感情について話し合ったり、特定の感情を取り上げて深く掘り下げる対話を行なっています。

思考が先行して自分の感情をどこか置き去りにしながら仕事をしてきたな、とこのところ反省しきりの私にとっては、とても刺激的な学びの場になっています。

特定の感情を取り上げて話し合いをする際にはプルチックの輪を使っています。

私が参加した回では、2023年一年を振り返って印象に残っていることとその時の感情について語ってみてから、特定の感情について対話で深めてゆこうという、なかなか面白い試みを行いました。

私自身2023年という年を振り返ってみる中で、何回か現れてきた感情であり、皆で話してみたいと思ったものが一つありました。
それが「切ない」、です。

プルチックの輪の中を探してみましたが、基本感情としても組み合わせの感情としても言葉としては出てきません。
この感情の正体は何なのか、話し合う中で意外な気づきがありました。
私自身の思うところと対話の中で出て来た話を少しだけまとめておこうと思います。

生まれ故郷で感じたこと

2023年に私が「切ない」を強烈に感じた出来事は、6月に生まれ故郷の函館を訪れた時に起こりました。

函館は私の母親の実家があるところで、長男であった私は母親の実家の近くの産院で産まれました。

産まれた日と産まれた場所、そこで吸った空気は人間という命が最初に外界から受け取るものなので、とても意味があるものだと私は信じています。
その環境が命を吹き込んでいる…
極端に言えばそうとも言えるのではないか、と。

函館を訪れたのは、今一度その空気を体内深くに入れてみたい、と思ったからでした。
そして、まさに産まれたその地に辿り着くと、こんな景色が待っていました。

私が産まれた函館市の大町という場所です。

写真ではわかりにくいかもしれませんが、あちこちに広い空き地があり、家も古いものが多いばかりかほとんどが空き家でした。

信号機の右側には子供の頃によく通った本屋さんがあったり、美味しい中華そば(函館ならではの塩ラーメン)を出してくれる蕎麦屋さんがあったのですが、いずれもなくなっていて更地になってました。
他にも色々な商店があったのですが、今はコンビニはおろか、どんな店も近くにはありませんでした。

昭和の時代には、函館には造船のためのドックがあり、北海道の玄関としての港町でもあって栄えていたのですが、今ではこのようにすっかりと寂れてしまっています。

この写真の場所に立った時に私を包んだ感情が「切ない」でした。

寂れてしまった生まれ故郷を見て寂しいと思ったから、というのとはちょっと違いました。
自分の体に馴染んでゆく生まれ故郷の空気…
自分はやっぱりここで産まれたんだなという感覚…
懐かしくて心の中がほっこりと温かくなる感じ…
次々と蘇る自分が子供の頃の思い出…

そう、なんとも言えない温かい感覚に体が包まれたのでした。
それは、寂しいとか悲しいではなく、何かに抱かれているような感謝の気持ちだったのかなと思います。
が、言語化して片付けることはせず、その感覚を自分自身で抱きしめて味わおうとしていました。

恋愛小説を読んで感じたこと

それからしばらくして、同じように「切ない」と感じることがありました。
読書をしてる時のことでした。

ネットのニュースで、全米批評家協会賞の最終ノミネートに日本の小説が選ばれているとあったので、興味を持ちました。(残念ながら選ばれなかったようですけれど)
川上未映子さんの「すべて真夜中の恋人たち」という恋愛小説です。

書評を読むと「哲学的な恋愛小説」あったので、どんなものだろうと思って手に取って読み始めました。
考えてみれば恋愛小説を読むのは私にとって産まれて初めてのことでした。

ネタバレになるので小説の中身についての詳細には触れませんが、私が「切ない」と感じたのは、主人公の女性が自分でもはっきりと分からない感情を抱え、苦悩し、相手の男性と何回か会うのだけれど…
という心の機微の描写のところでした。

読んでいてヤキモキする、というのとはちょっと違いました。
一人称小説なので主人公に対して感情移入がしやすく、それまでのストーリーからどのような気持ちになっているのかが我がことのように感じられ、情景が鮮明の頭の中に展開してゆきます。
そんな状態で私の中に起きたことを敢えて言葉にしてみるならば、それは
胸キュン
だったのではないかと思います。
いい年した男性の私がいうと気持ち悪いかもしれませんけれど。

でも、同時に「なんかいいな、温かいな」とも思えたのです。
胸を締め付けられるようなキュンとした感じなのだけれど、それと共にずっといたいような…そんな感じ。

「切ない」の意味

「切ない」を辞書で調べると、
・胸が締め付けられるような気持ち。つらくやるせない。
・大切に思っている。深く心を寄せている。
と出てきます。(大辞林より)
確かにこの通りだなと感じます。やるせない感じと大切に思う感じの同居。

対話会で私の函館の話をシェアしたところ、「哀愁」ではないかとフィードバックがありました。
そうかもしれないとも思いますけれど、そこまでは行っていない…
それに「哀愁」というとなんだか体が冷たくなってゆく感じがありますけれど、あの時の私は明らかに体が温かくなってゆく感じがありました。

英語にするとどうなるでしょうか?
和英時点では「切ない」はPainful(つらい)やHeartbroken(傷心)やsad(悲しい)と出てくることが多いです。(複数の和英辞典から)

これもちょっと違うな、と思います。
確かに寂れた生まれ故郷を見るのは辛いものがあったかもしれませんけれど、そこから蘇ってくるものから感じたのは悲しみではなかったので。

私としては、Sentimental(センチメンタル)が「切ない」や胸キュンに近いのかなと思います。「感傷的な」とか「思い出深い」という意味がSentimentalにはあります。
胸を締め付けられる、傷を感じるような部分と心情的な優しさが同居している感じがあるので。
ただ、一般的にはセンチメンタルというと悲しい感じですよね。

やはり、どれももうちょいって感じで、どこかしっくり来ません。

間(あわい)の感情

対話会の中では「切ない」も「大切」も「切る」という言葉が入ってるのは何故だろうという話になっていました。
言われてみれば、そうですね。感情なのに切るという表現を使うのは妙です。

こういう時は語源を調べるのが一番。

「大切」の語源・由来

大切は「大いに迫る(切る)」「切迫する」の意味を漢字表記し、音読みさせた和製漢語。
「緊急を要するさま」の意味から、平安末期には「肝要なさま」の意味で「大切」が用いられた。
中世には「かけがえのないもの」の意味から、「心から愛する」意味としても使われるようになり、1603年『日葡辞書』では「大切」が「愛」と訳されている。

語源由来辞典より

切ないの語源・由来

切ないの「切」は、心が切れるほどの思いを意味し、「切なる思い」や「切に願う」など、「親身なさま」を表す言葉としても用いられる。
「切ない(せつなし)」は、元々「大切に思う」といったポジティブな意味も表し、広い意味で「切実な気持ち」を指す言葉として使われていたが、時代とともにネガティブな意味のみで使われるようになった。

語源由来辞典より

なるほど。
重要であり肝要であるからこそ切迫した状況に人を追い込む。そういうものはかけがえがなく、実は心から愛するものでもある…と解釈できますね。
つまり、身を切るような痛みを感じながらもそれを愛している、と。

さて、ここからは私独自の解釈になります。
「切ない」は静的な感情というよりはダイナミックに変化してゆく途中の感情であり、移りゆく感情の狭間に存在するのではないか、と。
順に見てゆきましょう。

まず、大切でかけがえのないものがあります。
それは気になる人であったり(恋愛小説の主人公への感情移入)、自分の故郷であったり(懐かしい生まれ故郷)。

その大切なものが失われたと分かる、あるいは今まさに失われそうになっている…それを自分はどうすることもできない
…この状態が「切ない」ではないでしょうか。
たぶん他にも幾つのか感情が同居しています。

そして、ここから別の感情に移り変わってゆくことになります。
あるいは自分の中にモヤモヤしている切ない感情が分解され、それぞれがくっきりと鮮明になってゆくということかもしれません。
いずれにしても、エネルギーが下がる側に振れてゆくと、悲しみや哀愁へ。
そして、エネルギー維持、ないしは上がる側に振れると、感謝や愛へ。

つまり「切ない」はまだ感情としてはっきり切り分けられてない「間(あわい)」の感情の一つで、幾つの感情が混じっており、そこから特定の感情が鮮明になってゆく過程を通じて、「悲しみ」にもなれば「慈しみ」にもなる、と。

感情は、言葉にしてしまうと薄っぺらく陳腐なものになると私は考えています。もとの感情は言葉で表現した瞬間(思考した瞬間)に別のものになってしまっていて、逆にそれができるから人間は混乱したり壊れることなく感情と上手く付き合うことができるのではないでしょうか。
「切ない」はその意味で間の感情の絶妙な言語化でもあるかもしれません。

たまには間(あわい)の感情を味わったり、共にいることもしてみると人生は豊かになるかなと私は思います。
もちろん「切ない」とずっと共にいるのは簡単ではないかもしれません。でも、それができるのは人間が感情を持った生き物であるからこそなのかな、と。


最後に一枚写真をシェアさせてください。

函館山からの通称「100万ドルの夜景」

函館滞在の最後の夜、函館山に登る前に宿の人に「今日はガスが出るから夜景は見れない」と言われました。
でも、せっかく来たのだからと祈るような気持ちで頂上に着くと、その刹那、ガスがスーっと晴れてきてこのような綺麗な夜景が目の前に現れました。
それがこの写真の光景です。

もう函館に来ることはないかもしれない…
そんなことを想いながら登った函館山で、私が山頂に滞在したほんの数十分だけ、奇跡のように姿を現してくれた、私がこの世で一番愛する夜景…
それは私に別れを告げてくれているようにも感じられて、感動すると共に見せてくれたことに感謝の気持ちも湧き、同時にとても切ない気持ちになったのでした。

この生まれ故郷の夜景を、私は忘れることはないだろうと思います。

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