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死が怖い理由について考えてみた
私が今年読んで最も感銘を受けた本が「あした死ぬ幸福の王子」です。
今年(2024年)の6月に出た本で、難解と言われている20世紀で最も偉大な哲学者ハイデガーが唱える「死の先駆的覚悟」についてストーリー仕立てでまとめているものです。
あらすじをネタバレにならないよう少しだけ紹介しましょう。
ある国の傲慢な王子様が狩りで蠍に刺され明日にも死んでしまう状況になってしまいます。すっかり自暴自棄になってしまった王子が森の中で出会うのがハイデガーに詳しい老人でした。
「死ぬ時期がわかっているなんてことは幸せなことだ」と言われ、そこから始まった対話の中で王子は「本来の生き方」とは何であるのかに目覚めてゆく…そんな話です。
物語の中で紹介されるハイデガーの考える死の5つの特徴があります。
「ハイデガーは死と言う事象について分析し、するには5つの特徴があると述べている。それは、確実性、無規定性、追い越し不可性、没交渉性、固有性、の五つだ」
確実性とは、人はいつか必ず死ぬ、と言うこと
無規定性とは、いつ死ぬかわからない、と言うこと
追い越し不可性とは、死んだら終わりその先はない、と言うこと
没交渉性とは、死は誰とも分かち合えず死ねば他者とは無関係、と言うこと
固有性とは、死はその人に訪れるもので誰かに変わってもらえないと言うこと
らしいです。
これだけ読むとなんとも暗い気持ちになってしまいますよね。
なぜ暗い気持ちになってしまうのか、にはおそらく人それぞれの理由があるのではないかと思います。それを知ることで死と向き合い「本来の人生」を過ごすことができるかもしれません。私の場合について考えてみました。
どうなるか分からない怖さ
子供の頃、私は体が弱くしょっちゅう風邪をひいて寝込んでいました。
風邪を引くと40℃近い高熱を出し、3−4日は学校を休んでベッドから動くことはありませんでした。
アスピリンを飲んで水分をたっぷり摂り、布団を頭まで被ってびっしょりと汗をかく…それが2日ほど続くと熱も下がっていって学校に行けるようになりました。
今覚えば、この治療法で大人になってからの免疫力と体力がかなりついたのではないかとは思いますけど。
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起き上がってはいけないと親から厳しく言われ、ずっと動かないで私がみていたのは自分の部屋の天井でした。
天井のシミや模様をずっと見ながら、熱でぼんやりしている頭で考えていたのが「死」についてでした。
もちろん、死ぬほどの高熱が出ているわけではないのですし、それにより不安というわけではないのですが、物語などで病気で死んでいくのを読んだりしていた私としては、「死ぬ時って同じようにベッドから天井を見る生活が続くのかな」とか考えていて、その後はどうなるのだろうと思っていました。つまり、どのように死は始まり、死んだ後はどのようになってしまうのか、についての漠然とした恐怖です。
頭の中には、なんとなくですが真っ暗闇が浮かんでいました。
声をかけても誰も返事をしない真っ暗闇。その中に一人だけ置いてきぼりになっていて、自分の他には何もない。何もないから何をすることもできない。自分の体があるのかすらよく分からない。意識だけの存在みたいになっている状態…
その状態が続くとどうなるのだろう?
三途の川とかお花畑とか本当に出てくるんだろうか?
でも、サンタの話と同じように、そんなのは絵空事で嘘くさく感じていました。
死んだらどうなるんだろう?
分からないものへの恐怖はやがて興味に変わってゆきます。
命とは何かの疑問から生命誕生の神秘に。星の一生への興味から原子物理学に。本を読み漁ったり勉強したりしていたと思います。それで死の正体がわかるわけではありませんでしたが、恐怖は薄らいでました。
「他者の死」という体験
子供の頃はペットでいろいろな生き物(ハムスター、うさぎ、猫、犬、インコなど)を飼っていたので、それらの死に直面することも結構ありました。
愛玩していたペットがある日、冷たく動かないものになっている。子供心にはすごくショックでしたし、泣きながらペットのお墓を立てていたりしました。
人の死に直面したのは中学生になってからでした。
親戚の中で一番好きだった父方の祖父が肝硬変のため亡くなったのでした。そのお葬式で同じ年のいとこがわんわん泣いている横で全く涙が出てこない自分を不思議に思いました。
あんなに好きだったのに、こんなに思い出があるのに泣けない…
ペットが死んだ時はあんなに泣けたのに…
その後も、父方の祖母、母方の祖父母、叔父のお葬式には全て出ましたが、同じでした。
また9年寝たきりだった自分の父親の死には立ち会いましたが、ここでも泣くことはありませんでした。皆が泣いている中で変に冷静に立ち振る舞っている自分が不思議というか情けなく、泣けなかった自分に泣いてしまったのはしばらくしてからでした。
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死んでしまうと存在がこの世から消えてしまう。
でも、その人がいたことの記憶や思い出は誰かの中に残っている。どのように記憶されるのか、思い出されるのかは死んでしまった当人には分からない。
言葉を変えると、死によって本人の命は終わってしまうけれど、本人が居たことやその意味、相手に与えた影響はその先にわたって残ってゆくので、死は必ずしも終わりとは言えないのかもしれない、と。
こんなことを考えている私を、大好きだった祖父や父は笑っているかもしれませんね。
いつ死んでも良い、と思えた頃
社会人になってから親元を離れ大阪で一人暮らしを始めた私は、独り身の自由を謳歌し楽しい毎日を過ごしていました。
最初のうちは仕事で色々苦労もしましたけれど、仕事を覚えて回るようになってきたり、学校の友達とは異なる友人関係や共に語り明かしたり遊び回れる仲間が居たり、想うままに恋をしたり…
何かを我慢してやらないままにしていたり、先に楽しみをとっておいたりみたいなことが本当に最小限で、自分の意思のままに生きていました。
そして、今日もいい一日だった、と心から思い、寝付く前に思ったものです。
「このまま朝起きたら死んでいてもいいや」
本当に朝起きて死んでいたら大変なことだったとは思います。
身辺整理がされていたわけでもないですし、仕事だって仕掛かりものはたくさんあったはずですので、死んだ後に迷惑かけまくりになったことでしょう。
ただ、この時の感覚を今も大切に思っています。
自分の意思のままに毎日を思い残すことなく生きる。
これができれば死は怖くはないのだ、と。
負い目があるから死ねない
強気な独身時代だった私も、家族を持つと一気に死が怖くなりました。
自分が死んだしまった後に残された妻と子供のことが気がかりであったり、子供の成長した姿を見届けてから死にたい、とか。
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まだ、やらないといけないことがある
まだ、やりたいことがある
まだ、見たい未来がある…
そう、それは自分が背負っている何かのせいなのだと今になって分かります。
このことは紹介した本の中で出てくる「負い目」と重なってきます。
「なぜ負い目を感じるのか。それは自分が悪いことをしたと言う自覚があり、本当はもっと良い選択、良い生き方ができたかもしれないと思うからであろう。そうした態度は、つまるところ良心があると言い換えて良いのではないだろうか」
人間は有限の存在である
→ できないことがある
→ だから無力感を覚える
→ 負い目を感じる。
これまでの人生で自分勝手に生きてきたという「負い目」であり、自分が家族にできること、世の中に残して行けることにはできないことや限界があるという「負い目」が常に自分の中にある…
だから、万能ではない自分はもがく。何をやってもこの負い目は晴れることはないのだけれど生き続けて少しでも負い目を軽くしたいと願う…
そういうことなんだな、と。
それでも死を怖れずに生きる意味
ハイデガーの説く死の特徴の「没交渉性」や「追い越し不可性」にもあるように、死んだら何も残らないですし、死んだらそれで終わり、です。
だから死んだ後のことまでを本人が「負い目」として考えても仕方がないのかもしれません。
それよりも、死と向き合ってどのように今を生きるのかということ、それが「死の先駆的覚悟」なのでしょう。
「要するに、こういうことだ。まず前提は、「人間は有限の存在である(死ぬ存在である)」ということ。この前提により、人間は必ず「負い目(無力さ)」を感じる。この「負い目」から目をそらした生き方が「非本来的な生き方」であるが、ハイデガーは、この「負い目(自己の有限性)」に、正面から向き合えと言う。いや、それどころか、「自分が有限であること(自分が死ぬこと)」を先取って覚悟しろと言う。それが「死の先駆的覚悟」であり、そうした生き方を「本来的な生き方」と呼ぶわけだ」
死を恐れないで生きるということ、それは私なりの言葉で言えば「今を大切に生きること」になります。
独身時代の私が感じていた「自分の意志のままに生きている」状態、それは紛れまもなく自分を大切に生きていたということではなかったかな、と思います。
そして、社会の中で誰かと共に生きるようになったときには、相手や社会に対して果たせない望みや願いが残るから死にたくないという気持ちが生まれる。
それでも、今に満足しているならば死は怖くないはず。毎日を精一杯に生き、それを他者と共に実感できれば満足はそこにあるのではないでしょうか。
「人生の意味」とか「生きる意味」みたいなことで悩む人に時々出会します。
でもね、私は最近思うんです。
生きる意味なんて人生の最後で分かればラッキーなんじゃないかなって。
人生の意味なんて分からないままにこの世を去って行く人の方が多いんじゃないかなって思います。分かったところで終わるし、持っていけるものでもない。
それに、その人が生きた意味なんて、亡くなった後しばらくして周りが気づいたり言ってくれるもので、そっちの方が当たりなんじゃないかな、と。
それを聞くことはもちろん本人にはできません。
生きてるうちに教えてもらうものでもないかも。時間が経てば意味も変わるし。
だから、それよりも今この時を大切に生きる、それを振り返っていい人生だったと思えるように生きることなんじゃないかな、って。
ただこの言葉だけ、この一言だけ覚えておくのだ。
『人生は終わるまで終わらない』
色々あったし、今も色々あるのかもしれないですけれど、まだ終わっていない。
だから、終わりが来るその日まで、自分だけの人生を生きなくちゃ、ってね。
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