イルマリ・ハンニカイネン―『フィンランドの伝記辞典』(2011)から邦訳
イルマリ・ハンニカイネンはシベリウス音楽院設立当時からのピアノ教授であり、フィンランドにおける重要な世代を担う音楽家たちを育てました。ハンニカイネンの作品に見られる強い感情的な要素は、彼をフィンランドの最も重要な作曲家のひとりたらしめています。彼はフィンランドのピアノ音楽を印象主義的な色彩感で一新してゆきました。
イルマリ・ハンニカイネンは1892年にユヴァスキュラで生まれました。彼はペッカ・ユハニ・ハンニカイネンと声楽教師であったアッリ・ハンニカイネンの三人目の子供でした。彼の音楽的才能は早い時期から見られ、既に5歳の時には最初の作曲作品である《火花 Kipinä》を作曲しています。彼はとりわけ母と、しばしば伴奏をしたり、誕生日の歌である《平和 Rauha》や《これが真実 Det gäller》、《母の瞳 Äidin silmät》といった歌を書きました。ハンニカイネンのピアノ演奏は急速に成長し、ヘルシンキにてエリ・ラングマン=ビョルリンのレッスンを受けるようになりました。ユヴァスキュラにおいて彼は友人のヴァイノ・ライティオと共に交響曲やオペラを演奏しました。
ハンニカイネン:《平和》
1911年の卒業と共にハンニカイネンはヘルシンキ大学及びヘルシンキ音楽学校で学び始めました。ラングマン=ビョルリンのレッスンの傍ら、彼はエルッキ・メラルティンのもとで作曲を学び始めました。数ある中でも、キルピネン、アーッレ・メリカント、ヴァイノ・ライティオは彼の学友でした。1912年に行われた音楽学校の学生演奏会においてハンニカイネンは自作のハ短調のソナタ(作品1)を初演し大きな喝采を得ました。彼のデビュー・コンサートはユヴァスキュラで、1913年の1月16日に行われました。彼のピアノ四重奏曲と自身のピアノ演奏の成功によって、彼はウィーンへ旅をする奨学金を得ることとなり、パウル・ド・コンヌの生徒となると共に、フランツ・シュレーカーに対位法を学びました。
ハンニカイネンは第一次世界大戦が勃発した1914年にフィンランドに帰国しました。彼は歌手の伴奏をしたり、音楽学校でピアノを教えたり、とりわけ〈魔女 Hexe〉や〈アヴェ・マリア Ave Maria〉といった歌曲を作曲したりしました。1916年2月には彼はサンクトペテルブルクにて、かつてフランツ・リストの弟子であったアレクサンドル・ジローティのもとでピアノの学習を続けました。マクシミリアン・ステインベルクはハンニカイネンに作曲を教えました。リストの遺産や力強い仲間たち(ロシア5人組)、新しいフランスの印象主義はハンニカイネンの発展に大きな影響を与えました。サンクトペテルブルクにおいて、彼はピアノ協奏曲変ロ短調と、主要なピアノ作品である《幻想的変奏曲》の作曲を始めました。この地で彼は〈噴水のほとりで A la fountain〉を作曲しました。ヘルシンキに帰ったのち、ハンニカイネンはいくつものコンサートを行い、さらに1915年から1918年までは音楽学校でピアノを教えました。ジローティはハンニカイネンと共にフィンランドへ逃れてきました。彼らは2台のピアノで共にコンサートのプログラムの準備をし、北欧諸国やアントワープ、ロンドンにおいてコンサートを開催しました。
ハンニカイネン:ピアノ協奏曲 ロ短調 (1917)
ハンニカイネンは1920年にベルリンに赴き、奨学金の助けを得てピアノの学習を再開しました。しかし指揮者であるロベルト・カヤヌスが、パリでパドルー管弦楽団とセリム・パルムグレンのピアノ協奏曲第2番を演奏するよう猛烈な勢いで彼を呼び戻しました。彼はパリにて自身のピアノの学習をアルフレッド・コルトーのもとで再開しました。1921年、ハンニカイネンはロンドンのクイーンズ・ホールにて、ヘンリー・ウッドのコンサート(BBCプロムス)に指揮者としてデビューを果たしました。彼はロンドン滞在中、指揮者としてみなされていましたが、彼はフィンランドに戻ると彼の兄弟であるラウリの突然の死に見舞われます。
ハンニカイネンが書いた旋律《さすらう男の賛歌 Matkaiehen virsi》にヒルヤ・ハーティが後に言葉をつけています。彼は自身の兄弟であるアルヴォ、タウノと三重奏団を結成し、フィンランドや北欧諸国において成功を収めていました。つづく数十年もの間に、イルマリはアメリカを含む多くの地でコンサートを行いました。同時に彼は伴奏も務め、教育にも携わりました。1937年に彼は医師であるヨータ・ティングヴァルトと結婚しました。
ハンニカイネン:さすらう男の賛歌
ハンニカイネンはシベリウス音楽院の最初のピアノ科教授であり、1939年から1955年まで勤め上げました。彼の生徒にはケルットゥ・ベルンハルト、エーリク・タヴァッシェルナ、ヨーナス・コッコネン、エンツィオ・フォルスブロム、タパニ・ヴァルスタ、ティモ・マキネンらがいました。ハンニカイネンはジローティを引き合いに出し、生徒たちにこう言っていました。「ピアノを弾いてはなりません。音楽を奏でるのです。」ハンニカイネンの音楽観は洗練されており、行き過ぎるほどに神経質であり、また彼の性格は極めて深い精神性を持ったものだと見なされていました。芸術家として、彼は傷つきやすく、また妥協を許さない人物でした。1940年代には時々、パイヤンネ湖のほとりの閑静な場所でボートを漕ぎ、テヒンセルカで自身の苦しみを防ぐためにひとときの慰めを得ていました。
ハンニカイネンの作品の特徴はその詩情と旋律の流動性にありますが、それは巧みに書かれた対位法にもあるといえます。その楽器の扱い方は色彩に満ちた豊潤なものです。彼の印象主義者としての呼び声は、とりわけピアノ作品である《噴水のほとりで A la fountain》に基づくものです。この作品のコラールのような、彫りの深い印象主義的な主題は、装飾的なポリリズムと遠隔調どうしが編み込まれた色彩に満ちた織物に包まれています。実際に表現におけるその現代的な指示は、この作品をどう解釈すべきかを示す豊富で的確なものが記されています。ハンニカイネンは《幻想的変奏曲》の第1版を1917年にヘルシンキで初演しました。翌年には彼は新たな変奏を書き足し、この作品は《主題と19の変奏曲》として1924年に完成しました。簡素な4度を含む主題と変奏は想像力に満ち、ピアニスティックな名人芸に満ちた華麗なものですが、それはまたその死が近くにあることも反映しているのです。闇の部分の響きを持つ、ドビュッシーの印象主義としての影が見られる《5つのピアノ小品》(1921)における〈黄昏の声 La voix du crepuscule〉と〈ドビュッシーのシルエット Silhoette de Debussy〉は、このフランスの巨匠への賛辞なのです。
アイノ・アクテーは1929年の終わりにパリにいるハンニカイネンに手紙を書き、サヴォンリンナのオペラ・フェスティヴァルのためにオペラを書くよう依頼しました。ハンニカイネンは台本に対して何の着想もないままにこの約束を取り付けました。エルッキ・キヴィヤルヴィの初期の詩に基づく台本から、6週間という集中的な作曲期間のうちに書き上げました。《収獲の踊り Talkootanssit》は他と変わらぬ民衆のオペラとはならず、予期されたとおりに作曲はされずに喜歌劇となりました。これはフィンランドで100回も上演されるほどの成功を博し、スウェーデンやノルウェーにもツアーが行われました。このうち〈ペンッティのセレナーデ Penttis serenad〉や〈そこには祭と夏至の夜があり Oli juhla ja juhannusilta〉などのいくつかの歌は人々にとっての古典的なものとなりました。このオペラは民謡には基づいたものではないが、ハンニカイネンは1925年にハウホなどでこれらを採集し、4巻組で出版しています。
ハンニカイネン:〈そこには祭と夏至の夜があり〉
イスモ・ラフデティエ著
小川至訳
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