大山巌の観音信仰
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檜が倒れて隣家に被害が及んでは一大事なので、まだシッカリ根を張っているうちに伐採しなければなりません。クラウドファンディングで御支援をいただくことも考えましたが、資金調達を待っている余裕はないので、私の心疾患による入院に備えて蓄えた予備費から支出することにしました。
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巌観音の起源
東京都渋谷区に所在する大山家の敷地には、大山巌が建立した青銅の観音座像が現存する。大山家の親族は単に「観音さま」と呼び、固有の名称を持たない。その観音さまについて論じるにあたり、名前がないのでは不便なので仮に巌観音と呼ぶとしよう。
いまの巌観音は、私が生まれる前の祖父の代に敷地を切り売りした際に元の位置から移転し、私が生まれてから親の代に再び敷地を切り売りした際に再移転しており、二度も動かしているのだが、石の台座を含め、観音像の本体にもキズひとつなく今日まで伝わっている。
ほぼ等身大の巌観音は、岩塊の上に結跏趺坐した姿である。観音像は立ち姿が多いので座像は珍しい。
背には明治天皇の大山邸行幸を記念して建立した経緯について漢文で記されている。
維時明治二十三年十月三十一日
皇太后 皇后両陛下同十一月十五日
天皇陛下臨御於千駄ヶ谷村邸不堪
感激之至爰製此像以為紀念後世子孫
永勿忘 天恩優渥焉
陸軍大臣陸軍中将従二位勲一等伯爵大山巌識
明治二十三年十一月建之
大熊氏広彫像
礫川工廠鋳造
明治23年頃、たびたび明治天皇は閣僚級の重臣の私邸に行幸している。いわゆる鹿鳴館外交が充分な成果を得られなかったことから、大臣の私邸で外国使節などをもてなすように方針を切り替えた時期だった。
いまなら帝国ホテルなど民間の高級施設を利用すれば済むことでも、当時は外国の高官を接待するのに適した民間施設がなかったゆえ、鹿鳴館を建設した。しかし、鹿鳴館は外国使臣らから「場末の社交場」と酷評され、好印象を得られなかった。それゆえ、大臣の私邸でのホームパーティーで外国の要人を接待する方針に切り替えた。この時期、明治天皇が何人かの重臣の私邸を巡っていたのは、その準備を促す意味もあったと思われる。
明治22年から24年までの重臣私邸への行幸を掲げておこう。
明治22年5月 海軍大臣西郷従道邸 象の伎芸を天覧
皇族・大臣・枢密院議員、同顧問官等御陪食
明治23年6月 司法大臣山田顕義邸 能楽天覧
親王・大臣・枢密院正副議長等御陪食
明治23年11月 陸軍大臣大山巌邸 能楽・馬術天覧
親王・大臣・枢密院正副議長・貴族院議員等御陪食
明治24年2月 内大臣三條実美邸 臨終の病床を見舞う
明治24年4月 枢密顧問官川村純義邸 水雷技術天覧
皇族・大臣・枢密顧問官・陸海軍将校等御陪食
明治24年11月 貴族院議員池田章政邸 能楽天覧
親王・大臣・華族等御陪食
東京府学務部社寺兵事課 編
『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告』(昭和15年)による
このように大山巌邸への行幸は政策的に順送りで行なわれたことは自明のことながら、受け入れた大山巌からすれば記念物を設けずにはいられないほどに感激すべき事だった。行幸の記念物が設けられる場合、多くは「行在所」や「駐蹕之所」と記した石碑が建てられるが、大山巌は観音像を建立して記念物としたのだった。
大山家の菩提寺
大山巌の実家は鹿児島にあった曹洞宗の松原山南林寺の檀家だった。その南林寺は巌の青年期にあたる明治初年の廃仏毀釈運動によって廃寺となっている。また、巌には埼玉県大参事をつとめた成美という兄が居て、巌自身は先祖の祭祀を継承する立場ではなかったので、巌は将来において自分を弔うための寺院を新たに探さねばならなかった。
南林寺が廃絶したのち、巌の父、綱昌の墓を含む先祖の墓石群は永らく近隣の山中に放棄されていた。打ち棄てられた墓石群は昭和56年頃に鹿児島市内某所の山林で発見され、現在は東京都杉並区にある曹洞宗の泉谷山大円寺に移されている。かつて芝にあった大円寺は、薩摩藩島津家の江戸での菩提所であった寺院だ。巌の立場からすれば、この寺院の檀家に入るのが順当とも思える。だが、そうはならなかった。
巌は3人兄弟の次男であり、世にいう征韓論の明治6年政変で兄は西郷隆盛に従って下野し、西南戦争の前年に病死した。弟は西南戦争で薩軍に加わり、政府軍に加わった巌とは骨肉相食むこととなった。西南戦争以後の巌は「ないごて帰れようか」と、鹿児島との縁を断ってしまっていることから、鹿児島と縁の深い大円寺の檀家にならなかったのだろう。
自邸の庭に奉安した観音像は、いずれかの寺院に開眼供養を依頼したはずだが、それが何宗の何派の何という寺院であったか不明になってしまったことは、遺族の一人として遺憾とするところだ。
明治15年に巌は先妻の沢子(吉井友実の娘)が若くして病死したので、喪主となって葬儀を行ない、墓を建てている。その墓石は直方体の竿石を芝台、中台、上台の三段の上に載せたもので、ごく普通の様式であり、のちに建立された巌の墓が上円下方の特異な墳墓であるため、夫婦の墓石ながら外観は大きく異なっている。はじめ沢子は青山霊園に葬られ、のちに那須にある巌の墓に向かって左隣に移された。当初に埋葬された青山霊園は、寺院に墓を設けることができない神葬祭で弔われる高位高官らのために設置された墓地で、現存する沢子の墓石も竿石の頂部を四角錐にする神葬墓の様式を採り入れており、また、墓碑銘には仏教でいう俗名が記されるのみで戒名はない。そこからすると、当時の国策に従って神葬祭が営まれたことが窺われる。
巌観音が建立されたのは明治23年であるから、沢子を神葬祭で弔ったのちも巌はプライベートでは観世音菩薩を信仰していたことがわかる。しかし、どの寺院に巌観音の供養を頼んでいたかは不明となってしまっている。
鳩ヶ谷と巌観音
私が祖父母から口伝えで聞いた曖昧な記憶から、巌観音の由緒らしきことを掘り起こしていこう。文字史料ほどの信頼性は保証しかねるが、いま書き残しておかねば、やがては忘却の彼方に消え去ってしまうだろう。
私が伝え聞いた家伝の内容を箇条書きにする。
・巌は埼玉県の鳩ヶ谷近辺で路傍に打ち棄てられた銅の観音像を見た。
・その像はバラバラにされていた。
・それを陸軍砲兵工廠で継ぎ合わせ、二体の観音像を建立させた。
・一体は千駄ヶ谷村穏田の私邸に、もう一体は沼津の別邸に奉安した。
・沼津の観音像は、別邸を人手に渡して以後は所在不明。
巌の没後すぐ、西村文則が著した『大山元帥』によると
穏田の大山邸へ行くと、玄関前へ西向きに建立されし露天の仏像がある。即ち青銅の古びた、一基の観世音菩薩が其れである。此又由来に興味がある。明治二十二年の大演習の時、元帥は埼玉県下へ行つた。而して其頃は、未だ陸軍中将伯爵の身分であつた。すると、大宮在の一廃寺に、五体のばらばらになつた、一対の青銅で鋳た観世音菩薩の像がある。廃寺の事とて、此管理者すらない。
之を見たる元帥は、此哀れな、殆んと棄てて顧みられない観世音の銅像に対して気の毒になり、若干の金で土地の人から買ひ取つた。それを演習終了と共に東京へ運んで来て、此五体ばらばらになつた観音像を砲兵工廠に担ぎ込み、さうして此五体を継ぎ合せて貰つたのだ。
(西村文則『大山元帥』忠誠堂 大正六年 p203)
家伝が遺棄された観音像を発見した位置を鳩ヶ谷の路傍とするのに対し、大宮在の廃寺としている点が異なっている。
鳩ヶ谷は巌が趣味の銃猟をしに何度となく訪れた場所で、路傍に遺棄されていた観音像を発見したとするあやふやな家伝にも多少の信憑性がある。一方、陸軍の演習に際して大宮で発見したとする西村説に対しては、陸軍特別大演習の初回が栃木県宇都宮付近で実施されたことと、東京と宇都宮を往復する際には大宮辺を通過することとが思い浮かぶが、その時期は明治25年であり、同23年の巌観音の建立とは結びつけることが出来ない。
しかしながら、西村説でいう「一対の青銅で鋳た観世音菩薩の像」は、沼津の別邸にも観音像を奉安した(巌観音は二体あった)とする家伝と一致する部分もある。また、巌観音の背面に記された内容とも、鋳造したのが陸軍の礫川工廠としている点が一致する。
礫川工廠とは、現在の東京ドームシティや小石川後楽園の位置にあった陸軍の砲兵工廠で、当時は鋼製砲が発展の途上にあり、青銅で大砲が鋳造されていた時期だった。陸軍では名称を「れきせん」工廠と読み、現在その跡地の一画に礫川公園があるが、これもレキセンコウエンと読む。固有の地名の「小石川」をもとに、小石を意味する礫の字をあてたものと思われる。この礫川工廠では日本最古の洋式銅像である大村益次郎像が明治25年に鋳造されている。巌観音の背面に記された作者の大熊氏広は、この大村益次郎像の作者でもある。その点にこそ巌観音の歴史的な存在意義がある。
大熊氏広は鳩ヶ谷の農家に生まれた人で、明治9年に工部美術学校が開設されたとき彫刻科に入学、同15年に首席で卒業した。その後、皇居の明治宮殿造営に彫刻の分野で加わり、また、同18年には宮内省から大村益次郎像の制作を依頼され、わが国で初の洋式銅像の鋳造に挑むこととなった。同21年にはフランスおよびイタリアに渡り、パリ美術学校ならびにローマ美術学校に留学、翌年帰国した。
この大熊氏広の出身地が鳩ヶ谷であることが、巌観音の由来を鳩ヶ谷で打ち棄てられていた観音像に求める家伝に変化したとも考えられる。しかし、鳩ヶ谷には明治初年に廃寺となった曹洞宗の寺院が二つある。それらの廃寺から観音像が撤去され、路傍に放棄されていたと想像するのは穿ちすぎだろうか。
余談ながら、大熊氏広は美術家としては一流の人物と評されるが仏像の制作に関しては専門外だった。古来、わが国の仏像制作技術は仏師によって受け継がれており、同時代の彫刻家・高村光雲は、もともと仏師だったのが、廃仏毀釈の影響で仏像制作の機会が著しく減少したため、仏像以外のものも制作するようになった。巌観音は明治天皇の行幸を受けたという一世一代の栄誉を記念すべく制作されたものなので、仏師であり彫刻家としても実績のあった高村光雲こそ作者として適任であったように思えるが、新進気鋭の大熊が作者となった。それは、わが国初の洋式銅像たる大村益次郎像のテストケースとして、大熊が制作した原型を礫川工廠で鋳造するという組み合わせが選択されたものと思われる。ただし、巌観音は信仰の対象である仏像であって、美術品たる洋式銅像ではない。その点を考えると、仏教美術の伝統を守り伝える仏師ではなかった大熊が巌観音を制作したという意味では信仰的な価値を減じることにもなり、また、美術品としても新人作家による習作にすぎないため、私にとっては信仰的にも財産的にも高い価値を持つものと思えない。あくまでも「お庭の観音さま」として前を通るときには会釈するほどの存在だ。
勅令による国葬
大山巌の没年は大正5年で、本来であれば、その葬儀は後嗣である大山柏(次男。夭折した兄にかわって後嗣となる。筆者の祖父)が喪主となって営まれるはずだった。しかし、病死の直後に宮内省から葬儀を国葬とする旨が大山家に申し渡されたのだった。
国葬は、巌が内大臣としてお仕えした大正天皇の特旨(大正5年勅令第244号)によることで、とうてい辞退は許されない。後嗣の柏は明治22年の生まれであり、まだ30歳にも達しない若輩だったが、宮内省が青山霊園への埋葬を計画したのに対し、那須に埋葬することのみは「故人の遺志」として譲らなかった。
宮内省陵墓官の設計による墳墓は、数年前に国葬となった伊藤博文の墓を上回る規模であり、すでに区画に余裕が乏しくなっていた青山霊園に築造するのは困難であったのに対し、那須には大山巌の経営する農場があり墓所を造成するのに充分な余裕があったからだ。埋葬地以外、すべて葬儀の次第が大山家の意向と関わりなく決められ、出雲大社東京分祠によって神葬祭が営まれた。
墳墓は、広く一般から寄付を募り、宮内省陵墓官の設計による天皇陵に準じた上円下方の壮大な墓碑が建設された。だが、それも大山家の意図したことではなかった。
先になくなった陸軍大将乃木希典を顕彰すべく中央乃木会が設立され、乃木神社の創建に向けて活動が始まると、生前の巌は「あのように神格化されたくない」と親族に訴えていた。そのため大山神社の創建を免れるかわりに壮大な墳墓を築造することになったのだと、私は祖父から聞かされている。
国葬に関する宮内省から大山家への申し入れに対し、柏はたいへん不満に思っていて晩年に至っても小学生だった私に「ひどく腹が立った」ことを伝えたほどだった。お庭の観音さまを信仰していた巌が神式の墳墓に葬られたとあっては、捨松の墓もキリスト教の様式を採り入れることは出来ず、巌の墳墓に似せた上円下方の墳墓が築造された。
大山家の信仰は、ひとつの寺院に一家全員が帰依するという一般に見られる形態ではなく、巌は自邸に観音像を奉安した仏教徒であり、その後妻となった山川捨松は霊南坂教会のミサに通うクリスチャンであったが、夫婦いずれも一人だけの信仰であって、家族に入信を勧めるほどには信仰に傾倒していなかった。
後嗣の柏は不信心で、神社仏閣で参拝することはあっても日常的に信仰することはなかった。ワイマール時代のドイツに留学した際に本場仕込みの「神は死んだ」というフリードリヒ・ニーチェの哲学に影響を受けたものかと想像するとともに、両親の信仰が別個であったことが、柏の信仰に対する積極性を持ちにくくしたとも考えられる。
しかしながら、柏の存命中も巌の墓前祭は神式で行なわれ、今日まで継承されている。また、巌観音も自邸の敷地を切り売りした際に自分の持ち分として残す土地に移転させた。この際に巌観音を近隣の寺院に移すことなく自宅に残したのは、やはり「後世子孫、永く忘る勿れ」と巌観音の背面に刻まれた文言ゆえのことだったろう。柏は巌観音に対して積極的に祈りを捧げていたわけではないが、撤去するには忍びなかったのだ。そこからすると、柏は不信心だが神仏を拒絶しなかったという立場だった。
柏の本葬は那須で神葬祭が営まれ、そのあと築かれた墳墓も神式であるが、東京で告別の会が開催されたときは会葬者から献花を受ける形式を採り、宗教色を薄めていたことを記憶している。
このように大正5年勅令第244号は大山家に多大な影響をもたらし、なおかつ、勅令廃止の手続きから漏れているため、私は心理的な圧迫から逃れられない。たとえば、太平洋戦争で戦死した山本五十六元帥は国葬の栄誉を受けたが、その根拠となった国葬令は国会の議決を経て廃止の手続きがとられている。それに対して大正5年勅令第244号は、その内容のほとんどが国葬を営むための一時的な措置ではあるが、いまなお廃止されていない。それゆえ墓前で読経するなど仏式の供養をすることは違勅となりかねず、墓前での行事は神式で執り行なっている。
祭祀継承について
そもそもが大山巌の生前の信仰のあり方を探ろうとして種々に努力してみたが、なんとも無様なことに、その本筋に於いては成果らしきものを得られなかった。巌観音が大村益次郎像鋳造のテストケースとして位置づけることができると判明したのは、歴史的に意義ある発見となるかもしれないが、私が知ろうとしたのは大山巌の観音信仰の由来であって、その点では、なんら成果がない。まったく穴があったら入りたい気分だ。生前の信仰のあり方が不明であるからには、国葬によって定められた神式の路線で祭祀を継承するほかあるまい。
大山巌の墓所を継承していくことは、かなり困難な問題を含んでいる。那須の大山巌墓所は東日本大震災で石灯籠と石塀とが倒壊し、大きな被害を受けた。石塀が倒壊したことで、それまで閉鎖されていた墓所への侵入が容易になったことから掠奪を受け、石塀の修理後も潜り戸を破られたうえ休憩所の建屋にあった一族の写真はすべて額ごと奪われ、たいへん困惑している。
また、地元には大山巌墓所を共同墓地として開放することを要望する勢力があり、さまざまな手段で維持保存を妨害されてきた。また、地元の一部には大山巌の墓碑のみは保存すべきだとの意見もあったが、それすら観光資源として墓所の日常的開放を要求したうえ、墓碑の本体は保存するとしても敷地の大半は観光施設として開発、もしくは共同墓地として利用することを目論むものだ。敷地3000坪に及ぶ墓域を個人として維持管理していくことは困難だが、地元に管理を委ねることも自殺行為でしかない。
同時代を生き、同じく国葬の栄誉を受けた伊藤博文の墓所は東京の品川区が管理しているが、原則非公開として閉鎖されつつ保存されているのに比べ、大山巌墓所に対する地元の姿勢は対照的だといえよう。
子孫としてではなく、一個の歴史家として、とうてい「利用なくして保存なし」という地元の要望に添うことは出来ない。むしろ「保存なくして歴史なし」であることを地元に対しては訴え続けるのみである。また、国に対しては、国葬という故人や遺族が望んでもいない形態での葬儀が強要されたのだから、その墓所の維持保存に少しは手を貸していただきたいと切に願う。現行の文化財保護制度では、まず地元自治体が文化財として指定しないかぎり、その頭越しに県や国の指定を受けることが出来ない。大山巌は那須野が原開拓に影響を及ぼした人物ではあるが、それをもってしても地元自治体は大山巌墓所を「単なる個人資産」として、文化財とはみなしていない。そればかりか、本来は無税であるべき墓所の敷地に課税するなど、戦後は一貫して墓所の維持を妨害する態度を示し、墓域の開発を目論む一部の「市民の声」に応じている。
私は墓所の移転を真剣に考えたことがある。一個人として維持可能な規模ではない壮大すぎる墓域を、なんとしても維持しなければならない。それには文化財の維持保存に理解ある地域に移築復元すべきではないかと。
しかし、国葬が営まれたことによって、故人の意志は単に埋葬地の選択のみに反映されている。そのような事情から、墓所の移転は思いとどまっている。
難問山積のなか、維持保存を地元の行政に期待できないうえは、個人ではなく法人を設立するのが得策ではないかと考え、いまはその計画を具体化すべく考慮中だ。たまたま、そうした時期に没後百年を迎えたのだった。
神式の大山巌墓所の維持保存を訴えながら、没後百年の記念として仏式の法要を営むのは矛盾するようだが、故人の遺志を尊重したいという思いは一貫している。大山巌は那須に埋葬されることを望み、また観世音菩薩を信仰した。このような記念行事を営もうとしたのは、そうした故人の思いを反映したかったからだと御理解いただきたい。
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