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BLって「禁断」の世界を「のぞきみる」から萌えるカルチャーじゃないんですか?

ゲイ雑誌の編集の仕事を20年間やってきて、様々な作家さんや編集者の方と話をする機会があって学んだことの一つが「ゲイ小説・漫画」と「BL小説・漫画」は、似て非なるモノであって、その間には深くて広く超えられない渓谷が存在している、ということです。

最初にBL的な作品に触れたのは1970年代後半、小学校高学年の頃におませな同級生女子に借りた竹宮恵子氏の漫画「風と木の詩」でした。男同士のエッチが描かれていて、すでに「ホモ」という自覚があった僕にとってはドキドキする、まさに「禁断の書」でありました。その後、1980年前後にゲイ雑誌「さぶ」の発行元であるサン出版から「June」が創刊(短期間で休刊→復刊となった)され、(当時は「やおい」と呼ばれていた)BL文化が広まっていきました。

風と木の詩(©竹宮恵子)

中学生の頃にはゲイである自覚を持っていた僕が好きなのは三浦友和さんのような爽やかなスポーツマンタイプ。当時の「やおい」で描かれるような美少年には関心がなく、また自分も美少年とは程遠いデブちんだったので「やおい」世界は自分には縁のないもの、と判断して興味を失ってしまいました。

それから20年の時を経て、2000年前後にはBLは一大カルチャーに成長して、書店でも多くの棚をBL漫画・小説が占めるようになっていました。ゲイ雑誌の編集に携わっていると、個人の好みとは別にビジネスの面でBLに興味を持つようになりました。

そうして、何人もの作家さんや、BL関連の編集者の方と話をする機会を得たのです。

ある有名BL漫画家さんとの会話でとても印象に残っていることがあります。

ゲイ雑誌編集者の観点だと、小説でも漫画でも、登場するキャラクターはゲイであるか、実はゲイだった、という設定を求めてしまいます。ところがBL小説・漫画では、ゲイ設定を為されているものを見かけないのはどうしてですかね? と尋ねたところ。

ゲイかどうか、なんて設定は必要ないんですよ。例えば、高い棚の上にあるものに手が届かなくて困っていた時に、背の高い男性が取ってくれた。自分のないものを持っている人と出会った。それだけで恋に落ちる理由になるじゃないですか」

という言葉に、「なるほど」と感じる部分と、釈然としない部分を覚えました。

その後、BL誌の編集の方と話をすることで、その釈然としない部分の理由が見えてきました。

ゲイ雑誌の場合は書き手も読者も大半がゲイなので、そこで描かれる世界に対しては読者の当事者性が存在します。そしてゲイ雑誌は「ゲイ男性向けアダルト雑誌」なので、コンテンツには「おかず」要素が必然的に求めらます。あまりにも荒唐無稽でリアリティを欠いた設定の作品の場合、自分を作中の人物に投影することは困難であり、「おかず」として用いるには結構ハードルが高くなってしまいます。だからほとんどの作品は、フィクションでありながら無理なく男同士が結ばれるリアリティを感じさせる設定になります。

ところがBLの世界は全く違います。腐女子と呼ばれる女性読者が中心であるゆえに、作中で描かれる男同士の恋愛・エッチに、読者の当事者性が存在しませんあくまで傍観者として作中の男たちの恋やエッチを客観的に楽しんでいるというのです。だから、「おかず」として成立させるためのゲイ小説・漫画におけるリアリティは必要ありません。その分、より自由に創作の羽を広げることができるので、BL漫画・小説の進化・深化ぶりは目をみはるものがあります。

ゲイ小説・漫画と、BL小説・漫画。
同じように「男同士」の恋やエッチを描きながらも、この両者は似て非なるものなんだなあと、理解することができました。

さて先日、朝日新聞のこのツイートが話題になりました。

これについて、LGBT当事者である世田谷区議の上川あや氏が下記のように批判するツイートを公開。

上川あやさんは影響力の大きい方ですし、他にも批判の声が届いたのか、朝日新聞のアカウントでお詫びがツイートされました。

この一連の流れには、なんだか違和感を覚えてしまいました。

というのも先述のように、同じ男同士の恋愛やエッチを描きながらも、BL小説は、リアルなゲイとは関係なく成立してきたエンターテインメントであるわけです。(中には腐男子と呼ばれる男性読者もいますが)女性読者がリアルな自分の世界とは切り離された、ある意味「禁断」の世界を(そこに自分を介在させないで)「のぞき見る」ことにこそ「萌え」があるわけです。

令和に成っても「禁断」という枕詞を使うのが古くさいとか、時代遅れだという感想を持つ方もいるでしょうが、それは別のお話で。

リアルなゲイとは関係ないにも関わらず、男同士の恋愛やエッチを描いているからという理由で、BL(ボーイズラブ)に対してLGBT人権運動のポリコレ(ポリティカルコレクトネス=政治的・社会的に公正・中立な言葉や表現を使用すること)を発動させて批判・取り締まってしまうことに正当性はあるのでしょうか?

BLの世界を愛している腐女子の皆さんは、
「架空のエンターテインメントをひっそり楽しんでいるのにリアルなLGBT規範を持ち込むのは勘弁してほしい」
と、迷惑に思っているのではないだろうかと思った次第です。


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Tomita Itaru
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