時間に対する反省と物語の解体、21世紀文学の再統合

さいきん、現代をある点で代表すると思われる、ふたつの作品を読んだ。
村上春樹『1Q84』、大江健三郎『水死』である。

村上春樹『1Q84』はスバラシイ作品だが、それゆえに解決されていない問題も多々あるとみられ、それによって問題的である。私がいちばん消化不良をおこしたのは、(通俗的な)時間に対する反省が行われないことだ。
物語の冒頭、ヤナーチェクの音楽とともに「歴史」への批判が行われる。それによって作品は或る通俗的な時間を得る。
私はてっきり、この時間への反省が、作品の世界(観)そのものへの反省がどこかの段階で行われると期待していた。
はたして期待は裏切られてしまった。
時間は、物語によって使役され、物語が克服されることはなかった。

大江健三郎『水死』は謎多き、そして謎を解体する試みをも内包した問題的な作品であり、多くの悩める読者の心をくすぐる。
だが、過剰な想像力は過剰な物語をもまた喚起し、不気味な「全体的な」ものを将来しないだろうか?いやしくもそれが笑いや、パロディといったかたちをとっていようとも。わたしたちは「森」の物語に巧妙さゆえの危険さをみる。

しばしば、人は生の無意味さを埋めるために物語に埋まる。しかし物語によって不死となることはできない。だが同時に、死を生きることはできないのだから、物語を紡ごうと、物語を解体しようと、死は永遠に謎である。
わたしたちには、謎の淵源として、「存在」がまだ依然として残されて在る。
わたしたちはわたしたちの存在を追求するため、精神の/肉体のさまざまな試みを行っている。純粋な物語もかつてはその一端を担っていた。ところがいまでは、しぶとく現状の存在に安住するためのシェルターの役目を担っている。

小説において、措定された時間と世界は、いったん無化されなければならない。というのが私の小説観だ。
小説においては、追放か脱出か、生誕か死か、とにもかくにも絶対的なものの相対化が行われる。
よくできた物語が普遍性を帯びるほど、現代は牧歌的な時代ではないとみえる。
解体、そしてそこからの再構築が、21世紀文学の課題に思われる。

ここで、偉大なる愚かさ、といった表現で語られるような、奇妙な先人たちの試みを顧みるのも無駄なことではない。

例えば、埴谷雄高は、カントの逆を志向した。未規定な時間・空間を措定し、存在論を超出しようと企てた。そしてその試みは時限爆弾としてわたしたちとともに在る。

ロベルト・ムージルは、ニーチェを克服するため、エッセイズム的手法と像と比喩の操作によって、愛と暴力、暴力と愛・個と全、全と個の止揚を謀った。これは広義の存在論だと、私には思われる。

かれらがドストエフスキーを愛し、また同時にそこに物足りなさをも感じた者だということは、注目に値すると思われる。彼のごった煮的闘争は間違いなくひとつの革命であり、同時に歴史と精神はその楽天的宗教性とリアリズムの限界をも示してしまった。

また、彼らがおおむね、肉体よりも精神を、行動よりも思索を追求したことは、問題として/課題としてわたしたちに残されて在る。

昨今の文学に限らない全体的な状況を鑑みるに、かれらはすでにして21世紀文学の申し子であった。けだしたかだか100年は、精神にとって誤差にすぎない。同時代とは、今このときだけでなく、つねに愚鈍に尻尾を引き摺ってあゆむかわいい怪獣である。

私はいままで、いくらかの文で21世紀文学の展望を語ってきた。私もまた、こうして書くことで、わたしたちの認識を解体し、再統合することを試みているわけだ。思想・哲学・文学・芸術etc…の各分野の細分化という、一見「個別には」精緻にみえてともすると荒々しい「全体的な」結論を導きかねない躓きの石に、一石を投じてこれを打ち砕こうとする愚か者である。

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