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びっくりマークのない世界

『青年の環』の第一部「家の中」の章には、家庭内のゴタゴタが描かれているけど、書きっぷりが執拗で生々しく個人的なヒットだった。主人公の兄と曾祖母の互いの怒りが相手の怒りを増幅して尽きない酷い状況をこれでもかと活写している。これは例えば野間が影響を受けたサルトルや、同じくサルトルの影響を受けた大江健三郎にはない、地を這うようなリアリズムだと思うた。車谷長吉やドストエフスキーに近いものがあるかもしれないが、より野暮ったく、より変な実感がある。あるいは日本の自然主義文学の中には、こういった日本らしい家庭のあり方が他にも描かれているのかしらん、胸が熱くなる。思うに、野間の文体は非常に描写がしつこく、こだわりの持続が長く、そして「?」はわりとあるのに「!」つまりびっくりマークがあまり出てこない(といっても後のページをパラパラ繰ったら、多用されている場面もある)。びっくりマークがないということは、そこで文がいったん締まることがなく、だらだら這うように、じめじめ澱んだまましつこくこだわっていく。「!」ですっきりすることがない。もしもすっきりとした文を書いていれば、「!」がなくとも爽快感はあるのだが、しつっこい文がナメクジのようにてろてろてろてろつづくので、二段組ページのほとんどが普通の文学だとカットされそうな些末なこと・妙な妄念に覆われているということもざらにある。もちろん、そういう方法を採る作家が日本に少ないわけではない。大江や、おそらく自然主義文学・私小説の書き手の一部はそうなのだろう。ただ、『青年の環』を読んでいると、比較して、彼らの文さえもが相当に洗練されて周到に操作された文だと思える。彼らの文は悪文ではない。そういうなら『青年の環』こそは悪文だ。なんなら怪文だ。三島由紀夫が野間をライバル視していたそうだが、三島らの「端正な書き手」とはそもそもの方法が違う。三島などは地の文にも強調して「!」をつけちゃうくらいである! とにかく『青年の環』はタイトルの爽やかな前向きそうなイメージと正反対の、ぬめぬめした、気味の悪さが支配している小説だ。これは仲間である埴谷雄高の『死靈』などともまったく違う、別の質と、なにより量(8000枚!)をもったものだ。横溢する得体の知れなさは、森敦の『われ逝くもののごとく』に少し近いかもしれない。歯切れの悪さと妙なリアルさは、小島信夫の作品に近いかもしれない。だが何よりもやはりこの執拗さと、言い忘れていたが挿話と思想(左翼思想、共産主義、仏教、フロイト、あと何か異様なオリジナルのものなど)の混ぜ具合(これもまた濃厚に鈍重で、話のテンポをどんどんどんどんスローにする)、こういう露骨な、瑕瑾ともとらえられ得る、おのずから洗練を拒んでいるもろもろの要素は、やはり『青年の環』を『青年の環』たらしめている。それ自体の『青年の環』性が、『青年の環』を無二にしている。私はすでに論集などを読んでいるので、この作品の結末をなんとなく知っているが、私の興味あるのはむしろ途中の、『青年の環』が持続している過程だ。もし書き進められるほどにこの野暮ったさ、たどたどしさ、執拗さが洗練しスマートになっていくのだとしたら、むしろ私はそれから読み進められるかもはやわからない。あと言い忘れていたが、作中には「……」も異様に多く、会話のほとんどが「……」のこともあるくらいだ。お前はビックコミックの漫画か、というくらい「……」だけの場面などもあり、その歯切れの悪さは錆びついた刀……というより、研いでない出刃包丁という感じがする。その割には扉絵に池田満寿夫が描いちゃってたりして、1960年代のアーバンギャルドはかくも土着と接着していたのか、と感心することしきり。最後に、この小説の主題は部落問題や戦争の問題、天皇、インテリの生き方や日本の家の闇、経済、愛、性、死、デカダン、社会運動、云々、戦後文学のテーマを殆どぶち込んでしまったようなごった煮で、しかもそれらが鈍重な反・洗練された気味の悪い文の中で煮詰められ、どろどろの闇鍋となっている。昭和24~45年まで書き続けられたが、それが全く意外に感じられないほどの時間の引き延ばされっぷりで、理由はわからないが、肩の力を抜いて読んだほうがスッと入ってくることにさいきん気がついた。

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