イタリア人と友達になる確率を考えた
Vol.093
イタリアが好きだからイタリア人と友達になりたい。
イタリア語を勉強したいからイタリア人と友達になりたい。
様々モチベーションがあると思うが、はっきり言いたいのはイタリア人も千差万別ということ。
地球上にいるイタリア人は約6000万人と考える
イタリア国内のイタリア人人口が6000万人。
政府での登録数であるから、世界レベルにすれば戸籍変更なども考えて、もっといることだろう。
あのプロレスラーのハルクホーガンですら、彼のおばあちゃんがイタリアのピエモンテ出身であるから、イタリア系であると言える。
ただ、ここでいうイタリア人というのは、イタリア生まれのイタリア育ちを言いたい。
つまりイタリア語を母国語とする人口。
となる何人と友達になれるかなんt、10人もいれば十分かと思う。
となると、1/6,000,000だ。
この確率での友達を見つけることになる。
となると、1以外の6百万人はハズレとなる。
つまり、言いたいのは、イタリア人だからといって全てがいい人とか馬が合う人ではないということだ。
中には本当に気が合わない人もいる。
その時に、やっぱりイタリア人は! と思わずに、まずその確率を考えてほしい。
そしてもしいいイタリア人と友達になれた場合は、その確率において、なんて自分はラッキーなんだ! と思って欲しい。
日本でも同じことが言える
日本生まれで日本語を母国語とする人。
1億人以上存在して、自分の周りに何人の友達がいるか?
これも確率で考えると理解が容易であり、さらにいえば経験的にも嫌な思いをした人、素晴らしく尊敬できるような人との出会いもあったりするのと同じだ。
これをさらに知識ベースで考えると、イタリア人だからイタリアのことを全部知っているということもなく、日本人だからと言って日本のこと全部知っているわけではない。
東京生まれと東京育ちの私に、例えば大分の商店街のあの店と言われてもわかるはずがないし、醤油は甘口が基本だよねーと言われても、濃口で育った人とは全く違うような。
イタリアも同じで、ピエモンテの人が日常でピッツァを食べることもないし、ヴェローナの人がパレルモのクアットロカンティの歴史を皆知っているわけではない。ましてライスコロッケのアランチーニを日常に食べてるわけではないし、カルボナーラを日常に食べるわけでもない。
イタリアの理解と日本の誤解
日本の理解とイタリアの誤解
イタリアではこうなんだけど。
日本ではこれが当たり前なんだけど。
これはどちらも正しいこと。
いわゆる文化の壁というか。
日本ではパスタを啜って食べる場合もあるが、イタリア人は啜って食べない。
私はあえてこれを咎めることもしないし、さりとてイタリアで楽しく旅行したいならイタリアの流儀に合わせるのもいい。
同時にラーメンを箸に巻き付けてもぐもぐ食べるイタリア人を咎めないし、さりとて日本で楽しく旅行したいならと日本の流儀を教えていくのもいい。
ときに、その文化の違いに衝突した時に、イタリア人全部を責める人もいる。同時に日本人全部を責める人もいる。
大切なのは文化の違いの衝突した時に、咎めることでなく、理解と笑顔を持って接することではないかと思う。
私的な寛容論
言語というのは国のガバナンスであると私は思う。なのでそのガバナンスの異なる人がコミュニケーションをもって友達になるのだから、その時に必要なことはただただ寛容なのだ。
この場合の寛容は異文化間の理解だけでなく、会社間、人間関係の上でも必要なことである。
そしてどちらが優れている、劣っているということもない。
寛容のすなわちは思いやりではないだろうか。
つまり国境を超えて友達を作りたいという全ての行き着くところは、思いやりだ。
それで確率はぐんと変わってくるだろう。
ただし、友達の数として1万人以上は必要なのか? とも。
一期一会。
これからのシャッフルの時代が始まる前に。