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故郷から見たアジア太平洋戦争 #4 「戦後をめぐる語り合い 前編」

故郷から見たアジア太平洋戦争〜登場者紹介
故郷から見たアジア太平洋戦争 #1 「戦前をめぐる語り合い」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #2 「戦中をめぐる語り合い 前編」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #3 「戦中をめぐる語り合い 後編」

野田コーディネーター

私の家族のケースを申し上げますと、父の戦死後も家族としては叔父(父の弟)を含めて六人の家族構成で生活しておりました。

私が小学四年生までは、叔父には「おじちゃん」と親しく呼んでいましたところ、母が叔父との結婚で「『おじちゃん』ではなくこれからは、『お父さん』と呼べ」とのことで大変悩みました。とうとう社会人になってからやっと小さい声で最小限しか呼ぶことが出来ませんでした。

しかし、自分の結婚後は、嫁と子供達は、実の父として「お父さん」「爺ちゃん」と呼び、また、養父も心底、心が通ったようで救われたと有難く思っています。

このようなケースは、多く生じたものと考えますが、パネラーの皆さんではこのような家族構成に関する問題はなかったでしょうか?

田中パネラー

戦死された関係から家族関係が深刻且つ著しく変化した事例は、数多く聞きましたね。

外見上は穏やかなようでしたが、内実は相当な深い悩みを抱えられ、子供等を守り育てるための忍耐一筋だったと思います。

私の場合は、戦地の父からは、衣装箱いっぱいの手紙が来ました。父は戦死しました。

母は若かったし、私が小学一年生の時再婚しました。私は父方の実家に預けられました。母はその時父からの手紙全部を焼いてしまっています。

その母は今103歳になりますが、生きて健在です。

私が時々世話しておりますが、当時の様子、手紙の内容など今も聞くことがあります。

熊川パネラー

父の弟(おじさん)は中国雲南省で、昭和十九年五月十四日、まだ二十七歳で独身のまま戦死しました。インパール作戦中ではなかったかと思います。

今日(語り合う会)は、仏壇から写真を借りて持ってきました。

私には八歳上の兄がいます。戦後のずっと後ですが、テレビで、例のインパール作戦の映像がNHKで流れたのを兄が見て、おじさんとよく似た人が映った時、「あれはおじさんではなかったか?」と話したことがありました。おじさんは二十七歳の独身の身で戦死しましたが、婚約者もいたと聞いていましたし、やり遂げたい事もいっぱいあったのではないかと、本当に残念に思います。

私は今、下庄に住んでいます。瀬高町忠霊塔が近いため、毎朝妻と二人でお参りに来て、一日が始まります。

中山パネラー

父が戦死で亡きあと、母は幼子三人を連れ、母の実家のある瀬高に引き取られました。そこでは一家十三人の生活でした。しばらく母の実家で生活した後、八幡の土地、家を売り得た金で、母は瀬高の下庄に小さな家を建て、食べるだけの田んぼを買い生活しました。

特別な不自由はなかったようですが、やはり食べるのは困難と思う時もありました。

近所に当時、かつおの削り節屋さんがありました。そこのご主人から「母子だけの生活で何かときつかろう」と、いろんな物を貰ったり、お手伝いをとお願いされ、かつおぶしも貰ったりしていました。内職もさせてもらい、小さな妹もその内職を手伝っていました。

戦地での父の死に際の様子は、戦友の人から詳しく聞くことができ、遺品もしっかり送ってもらいましたので、気持ちの整理もそれなりに出来ました。

遺族の一人として、今まで遺族会のお世話も、しっかりしてきました。

女学校に行っていましたが、戦後学校制度が変わり、四年で終わるところが、さらに何年か行かないと卒業できなくなりましたが、父が戦死して居なく、貧しさのため、途中で学校を辞める事になり、とても悲しかったです。

藤岡パネラー

父は東シナ海にて、昭和十八年四月二十七日戦死、三十二歳でした。父が死んだあと、遣品の水筒が返って来て、その水筒の中に手紙が入っていました(死ぬ前に書いた手紙)。

父は上海から帰ってくる途中、魚雷にやられての死亡でした。父は機械室で事務をしていて、その船は小さかったためにやられたそうです。

我が家は当時、高田町海津で店を営んでいました。父亡き戦後は母一人、子一人で店を続けました。母は三十歳で未亡人となり、私も母の苦労をずっと見ながら手伝いました。今思っても母は本当に苦労しました。

相当きつかったろうと思います。子供(私ひとり)の成長だけが楽しみに頑張るしかなかったようです。

私も自転車で当時ガタガタの道を海津から柳川までたばこを仕入れに行きました。帰りはすっかり暗くなる事もあり、夜道がとても怖かった。店で売る酒は、大江の酒造会社 千代錦へ仕入れに行っていました。暗い中、ガタガタ道で酒瓶が割れないよう、リヤカーをつけた自転車を押して帰りました。

マッチも無かった時、元火から薄板に火を移し、火を起こしました。塩は配給でした。子供ながらに、本当に苦労しました。きつかった。

母は男自転車に乗り、父の分まで働きました。相当きつかったろうし、女手一つで本当に苦労しました。

梅野パネラー

終戦となり、家には、兄が戦死したとの公報が来ていました。しかし、戦地で終戦後に「兄と会った」という話を先に帰ってきた戦友の人に聞いていました。兄は戦死していなかったのです。兄は、のちに帰ってきました。

話によると、沖縄には、内地にないきれいな花が咲いていて、取りに行っていた時、爆弾が落ち、兄だけ助かったとのことでした。

兄は、船が沈んだあと、海中で気絶していたのを起こされ、助けられ、また、花を取りに行っていたためやられる事なく助かり、二度も命拾いしました。

戦争のない今に本当に感謝します。

加藤パネラー

私の場合、父の弟(叔父さん)がビルマのインパール作戦で戦死しました。

昭和二十年、遺骨の箱が返ってきましたが、中には、石が一つ、入っているだけでした。

〜続く〜

故郷から見たアジア太平洋戦争 #5 「戦後をめぐる語り合い 後編」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #6 「発刊に寄せて〜みやま市遺族会 会長 野田 清」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #7 「はしがき・あとがき〜編集委員会 委員長 野田 力」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #8 「編集委員会構成メンバーからの一言」
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