『山の神への畏敬と薩摩藩の狩猟文化に育まれる、猪のハレの料理』を掘り起こし継承したいと思います。
● 継承したい、伝統的な主な猪料理、自然への畏敬
⚪︎ 春寒・春寒汁
猪と、大根、人参、牛蒡の乱切りを主体とした煮物・汁
鰹出汁・塩を主体とした味付け
場合によっては、揚豆腐を入れ、葱を加えて皿に盛る
⚪︎ いのししの吸いもん
オヤシ(もやし)をあしらう
塩、地酒を主体とした味付け
⚪︎ いのししの味噌炊き
大根、にんじんをとり合わせた味噌炊き
⚪︎ その他、調査で再発見される伝統的な猪料理など
⚪︎ 県内の狩猟に関する伝承・しきたり、山の神
● 趣旨
鹿児島県では、江戸時代に盛んであった関狩や猟師による狩猟を背景とし、猪を食しハレの象徴として重用する文化が定着していた。またそれに寄り添い山ノ神を象徴とする自然への畏敬が存在し、近代まで受け継がれていた。
この様な風土に合致した食文化や自然への畏敬の念は、特に現代においては持続可能性を模索し文化の多様性の保全を保全する上で、大きな意味を持つ。しかし現状では、伝統的な郷土料理としての猪料理が喫食される機会は激減し、山ノ神を象徴とする自然畏敬の知識も忘れられ、食文化が途絶えつつある。
一方では近年ジビエ料理への注目が高まっていることで、猪料理を伝統的な食文化としての再評価できる機会が生じている。このことより、薩摩における伝統的な猪料理の継承と、自然への畏敬の思いを伝承したい。
● 概要
⚪︎ 近世(江戸〜明治初期)における、猪と、狩猟文化・食文化
江戸時代、領主による関狩や猟師による狩猟が盛んであった薩摩藩では、猪を食べる文化が定着していた。特に、「肝付家世譜」などで確認できるように関狩りが頻繁に実施されていたが、主たる獲物である猪は、特別な食材として扱われていた。
例えば、喜入町郷土誌によれば狩の後は当日の獲物を料理し酒を酌みかわし労をねぎらい士気を鼓舞したとされ、祝いを象徴する存在であったことが窺える。それだけでなく明治元年ごろの鹿児島の行事を記した「薩藩年中行事(伊地知峻,1937)」では、「○正月元且 吸物(猪か鯛か鴨等でオヤシをあしらう)」・「○正月三日頃……春寒((中略)猪・豚・鶏肉の中必ず一種類加える)」・「〇十一月神祭(中略)猪又は豚の春寒」とハレの食材として定着していたことが分かる。
また江戸前期の経兼日記では、「慶長六年辛丑正月 十一日(中略)隈之城百次より猪進上、十三日(中略)樽猪一丸進上仕候、十七日(中略)山野之初狩ニ猪一まる進上、十八日(中略)猪六まる、鹿一まる田布施初狩進上、晦日(中略)猪一丸・樽一荷進上」と、樽(酒)と共に献上や進物の特別な品として重用されていたことも分かる。
猪は食材として広く生活に密接であった側面もあり、江戸後期の『三国名勝図会』では旧吉田町の特産物として「走獣類 鹿 野猪(ノイ)」と挙げられている。また幕末近くでは、薩摩藩士が猪を重宝していた様子が、下記に引用する文と川柳から窺える。
野獣肉の嗜食も江戸の中期は盛んなものであつた。その専門店である「ももんじや」の俗称を有する店は麹町平河町にあり、(中略)天保の頃となると肉食の風は益々盛になつて来た、殊に芝の薩摩屋敷の豪傑連は猪となると大好物だ、一貫や二貫では到底も間に合わない、面倒臭いから丸ごと一頭持ってこいという大注文だ、それを川柳は十七字で巧みに表現して居る。
麹町芝の屋敷へ丸で売れ
明治になっても東京であまり豚肉(猪肉に類する)が浸透しなかった逸話(ふるさとの料理(伊藤永之介,1955))などを踏まえると、このような薩摩地域における猪や豚と生活の密接度は、他の地域より高かったと考えられる。
⚪︎ 近世(江戸〜明治初期)における、猪と、狩猟文化・食文化
一方、この様な狩猟文化と猪において、自然への畏敬が伴っていたことも文化的価値として指摘できる。春から秋まで豊作をもたらす田の神は全国的に知られるが、石像の田の神は旧薩摩藩である鹿児島県の薩摩・大隅,宮崎県の日向南部においてのみに見られ、地域に独特な信仰が篤いことは知られている。同時に山ノ神信仰も篤く、多くの山の神の石像や逸話が残る。谷山市誌に残る伝承では、慶長元年(1596)ごろ殿様が関狩を行ったが猪がいっこう出ず、家来が山之神に「家の白駒の子を捧げるので猪が取れる様に」誓い願がけをしたところ願の通り大猪が出た。殿様は大喜びでほうび取らせたが、それ以降家来は山之神を祀りその子孫も先祖の遺言を受け継ぎ毎年祭祀を怠らなかったとあり、考証もされている。
谷山市誌の別の逸話では、明治三年、吉辰善兵衛が「野猪百頭ヲ銃斃スル者ハ仏ニ供養ヲ築クトノコトアル故ニ遠祖ハ九十九頭ヲ獲テ猪獵ヲ止メラレシ」 ことが伝えられ、山の神や自然・猪に対する畏敬が狩猟に伴っていたことがわかる。
⚪︎ 近代(明治〜昭和)における、猪と、狩猟文化・食文化
この様な畏敬の念は近代においても一部受け継がれ、「鹿児島の食事(1989)」では、霧島山麓の食の項目で「仕留めたらまず、みんなで鉄砲を一発ずつ撃ち放ち、山の神への感謝を捧げる。担ぎおろされたいのししは、作法に従って解体される。(中略)最初に射留めた人の家で、刺身、味噌炊きの宴となり、山の神の加護も願う」と紹介されている。
⚪︎ 近代(明治〜昭和)における、伝統的な猪の郷土料理
猪に関する伝統料理も同様に受け継がれ、同書籍では霧島山麓における刺身・味噌炊きだけでなく、鹿児島市の商家の例として「正月料理にまず欠かせないのが、いのししの吸いもんである。いのししのようにたくましく、強く生きよという意味を含んだこの吸いものは、年はじめの祝い膳に縁起ものとして必ず食べている。いのししの肉は年末になると、納屋馬場の入り口あたりに、霧島方面から振り売りなどが来て売っている。」と記録され、「薩藩年中行事(伊地知峻,1937)」に記された明治元年ごろの正月において食された猪の吸物が引き継がれていることが分かる。
「薩藩年中行事(伊地知峻,1937)」に記されたハレの食べ物である春寒に関しては、近代まで猪を使用した鹿児島の郷土料理として受け継がれていることが確認できる。 「たべもの東西南北(日本交通公社,1954)」では、春寒汁(しゅんかんじる)が県下一円で食べられる「猪を主材料にした料理である。猪突的な薩摩隼人にはうってつけの好料理であり鹿児島の郷土料理として薩摩汁と好一対のものである。」と調理法とともに紹介され、「全国うまいもの旅行(日本交通公社,1956)」でも「鹿児島の春寒」として同様に紹介されている。
⚪︎ 伝統的な猪の郷土料理の現状と提案
このように鹿児島県では、江戸時代に盛んであった関狩や猟師による狩猟を背景とし、猪を食しハレの象徴として重用する文化が定着していた。またそれに寄り添い山ノ神を象徴とする自然への畏敬が存在し、近代まで受け継がれていた。
この様な風土に合致した食文化や自然への畏敬の念は、特に現代においては持続可能性を模索し文化の多様性の保全を保全する上で、大きな意味を持つ。しかし現状では、伝統的な郷土料理としての猪料理が喫食される機会は激減し、山ノ神を象徴とする自然畏敬の思いも忘れられ、「かごしま食歳時期上巻」(千葉しのぶ,2022)で紹介されるイノシシ汁などの一部の事例を除き、食文化が途絶えつつある。
主な原因として組織的な狩猟文化の衰退が挙げられるが、一方では近年ジビエ料理への注目が高まっていることで、猪料理を伝統的な食文化としての再評価できる機会が生じている。
以上から今だからこそ、薩摩における伝統的な猪料理の継承と、自然への畏敬の思いを伝承したい。
2025/02/22 海老原 誠治